noteを卒業していく人たちへ 連続投稿700日前に思うこと【50代】

noteをはじめて、もう6年になる。
こう書くと、ずいぶん長く続けてきた人のように見えるかもしれない。
だが実際には、途中ほとんどやっていなかった時期もある。
アカウントだけが静かに残り、私は別の場所で日々に追われていた。
それでも、ここ2年ほどはかなり濃いnote生活をしている。
気づけば連続投稿も、まもなく700日を迎えようとしている。
ただ、連続投稿は目標ではなかった。
結果として、そうなっただけだ。
毎日、書けることを書いていた。
介護のこと。
50代の身体のこと。
ロスジェネとしての引っかかり。
仕事のこと。
生活の中でふと胸に残った、小さな違和感。
そういうものを拾っていたら、いつの間にかここまで来ていた。
noteという場所に長くいると
noteに長くいると、いろいろなクリエイターの方を見る。
ものすごく文章がうまい人。
毎回、写真が美しい人。
考え方が鋭い人。
やさしい言葉を持っている人。
コメント欄まで含めて、ひとつの場を作っている人。
本当に、いろいろな人がいる。
ただ、その多くは、3か月、6か月、1年くらいの間に、いつの間にか姿が見えなくなっていく。
もちろん、理由は人それぞれだと思う。
生活が変わったのかもしれない。
仕事が忙しくなったのかもしれない。
書く必要がなくなったのかもしれない。
あるいは、別の場所へ移ったのかもしれない。
それを私は、無理に引き止めるつもりはない。
noteをやめることは、悪いことではない。
卒業という言葉が似合う場合もある。
ただ、長く見ていると、少し寂しさはある。
あの人の文章、好きだったな。
あの人、最近見ないな。
そう思うことが、増えていく。
反応がなくて、心が折れる
私が見ていて感じるのは、まずこれだ。
反応がなくて、心が折れてしまうパターン。
記事を書いても、スキが少ない。
コメントも来ない。
フォローも増えない。
誰にも届いていないような気がする。
これは、かなりきつい。
わかる。
本当にわかる。
文章を書いて公開するというのは、思っている以上に裸に近い行為だ。
自分の一部を外へ出して、それを誰かの前に置く。
そこで何の反応もないと、まるで自分ごと透明になったような気がする。
けれど、反応はすぐには生まれない。
時間がかかる。
タイミングもある。
運もある。
その日の流れもある。
読者の生活もある。
そして何より、自分自身も書きながら少しずつ磨かれていく。
最初から多くの人に読まれることのほうが、むしろ珍しい。
独り言のようでもいい。
日記のようでもいい。
誰か一人に届けばいい。
それくらいの感覚で、少し長めに構えていたほうがいいのだと思う。
noteは短距離走ではない。
少なくとも私にとっては、毎日の徒歩である。
しかもたまに膝が痛い徒歩である。
それでも、歩いているうちに見えてくる景色がある。

反応が多すぎても、人は疲れる
反対に、反応が多くて疲れてしまう人もいる。
これは、反応が少ない人から見れば、贅沢な悩みに見えるかもしれない。
だが、これもまた大変なのだと思う。
コメントがたくさん来る。
スキがたくさん来る。
フォローも増える。
交流も増える。
最初は嬉しい。
だが、真面目な人ほど、全部に丁寧に返そうとする。
ひとつひとつのコメントに向き合い、フォロー返しを考え、スキ返しをし、誰かを不快にさせないように気を配る。
やがて、それが義務のようになってくる。
noteを開くことが、少し怖くなる。
通知を見るだけで、肩が重くなる。
これはもう、赤信号だと思う。
noteは暖かい場所だ。
自由で、開かれた場所でもある。
だが、暖かい場所だからこそ、距離感を間違えると疲れる。
人間関係と同じだ。
近ければいいというものではない。
濃ければいいというものでもない。
自分が何のためにnoteを書いているのか。
そこへ一度戻ったほうがいい。
書くためなのか。
交流するためなのか。
記録するためなのか。
誰かに届けるためなのか。
そこが見えないまま、反応の渦に飲まれると、書くこと自体が苦しくなる。
長く続けるには、自分に合った温度がいる。
熱すぎても、ぬるすぎても、続かない。
有料コンテンツという現実
もうひとつは、有料コンテンツで思った成果が出ずに折れてしまうパターンだ。
noteを始める時、少なからず多くの人が考えることだと思う。
文章で収益を得られたらいい。
副業になったらいい。
自分の経験やノウハウが、誰かの役に立って、それが少しでもお金になればいい。
それ自体は、悪いことではない。
むしろ、チャレンジすることは大事だと思う。
ただ、日々noteをやっている人ならわかると思うが、そんなに甘くはない。
文章でお金を得ることは難しい。
自分だけの経験だと思っていても、ネットの世界は広い。
先に書いている人がいる。
もっと深い人がいる。
もっと専門的な人がいる。
もっとわかりやすく伝えられる人もいる。
その中で選んでもらうというのは、並大抵のことではない。
有料記事を出して、売れなかった。
それはきつい。
でも、それで終わりではないと思う。
売れなかった記事にも意味はある。
自分が何を商品として出そうとしたのか。
何を伝えようとしたのか。
読者はどこに価値を感じるのか。
その確認になる。
一発で当てようとすると、折れる。
積み重ねの中で考えるしかない。
結局、ここでも継続なのだ。
地味だ。
本当に地味だ。
だが、だいたい大事なものは地味である。

卒業していく人たちを見送りながら
今回、なぜこういう記事を書いたのか。
それは、長くnoteの世界にいて、たくさんのクリエイターさんと知り合い、交流させてもらってきたからだ。
そして、その多くの人は、いつの間にか卒業されていった。
それが少し寂しかった。
もちろん、人生はそれぞれだ。
noteに居続けることだけが正解ではない。
書かない時期があってもいい。
読むだけになってもいい。
別の場所へ行ってもいい。
完全に離れてもいい。
それもまた、その人の人生だ。
一期一会。
年齢を重ねるほど、この言葉が少し重くなる。
50代に入ると、人生の卒業というものも、どこか遠くにぼんやり見えてくる。
まだ先だと思いたい。
だが、時の流れは確実に速くなっている。
父の介護をし、母の認知症と向き合い、家族のことを考え、身体の変化を感じながら、私は毎日noteを書いている。
華やかな理由ではない。
ただ、書くことで自分を保っている。
書くことで、その日の自分を確認している。
書くことで、誰かと少しだけつながっている。
それで十分なのかもしれない。
連続投稿700日前に思うこと
私はあとどれくらいnoteを続けるのだろう。
正直、わからない。
今のところ、やめる予定も、やめる気もない。
ただ、人生は予定通りにはいかない。
介護もある。
仕事もある。
身体もある。
家族もある。
だから、軽々しく永遠とは言えない。
突然、おしまいの日が来ることもあり得る。
それでも、今日書けるなら書く。
明日も書けるなら書く。
それだけだ。
連続投稿700日。
数字だけを見ると、少し立派に見える。
だが、実際には一日一日を何とか繋いできただけである。
洗濯物を干すように。
薬の確認をするように。
父の様子を見るように。
母の機嫌を探るように。
コーヒーを飲んで、少し息をつくように。
その流れの中に、noteがある。
noteは暖かい場所だ。
自由で、開かれた場所だ。
だからこそ、無理をしすぎず、自分の温度で続ければいい。
反応がなくても、すぐに自分を見切らなくていい。
反応が多すぎるなら、距離を取っていい。
有料記事が売れなくても、それで自分の価値が決まるわけではない。
書きたいなら、書けばいい。
休みたいなら、休めばいい。
戻ってきたくなったら、また戻ればいい。
私は今日も、この場所で書いている。
ゆるぎなく、まっすぐに。
それは立派な決意というより、迷いながらも歩くための、私なりの姿勢なのだと思う。

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