「ローズマリーの香りのメッセージ」
植栽の緑の中を通り抜けた木漏れ日が、小花が飾られたテーブルの上で揺れていた。
来るのを楽しみにしていたレストラン。
それなのに、こんな気分でテーブルに着くとは思っていなかった。
茜はテーブルの下の自分の手を見下ろす。
昨日の夜、張り切って準備していた自分がバカみたいだった。
ピンクのマニキュアを塗った指先が、今日実現するはずだったキラキラしたデートを思い出させる。
お互いの仕事が忙しくて、電話だけで会えない日が続いていた。
久しぶりに会ったら、気持ちがあふれて、照れくさくなっちゃうかも。
でもかわいいって思ってもらいたいから、早起きしてメイクも頑張っちゃおう。
でも待ち合わせの駅に慎也が現れたのは、茜がすっかり待ちくたびれた2時間後。
しかもよれよれのTシャツにデニム。頭には寝ぐせがついていた。
「遅れてごめん」
慎也はもちろん謝ってくれた。
茜もこのときは、今ほど怒っていたわけではなかった。
「遅い! せっかく行きたいって計画していた場所があったのに」
「本当にごめん」
「もうお腹すいちゃったから、レストラン行こう」
「もうそんな時間か。分かった」
「どこがいい?」
「どこでもいいよ。茜の好きなところで」
そう言って慎也は大あくびをしたのだ。
それを見た瞬間、茜の中で何かがプチンと音を立てて切れた。
どこでもいい?
わたしといるのは、あくびが出るくらいどうでもいい事なの?
茜は湧き上がってくる怒りを隠すように、慎也に背を向けて歩き始めた。それもいつもの倍くらいのスピードで。
慎也は黙って後ろからついてくる。
その姿がまた腹立たしかった。
わたしの気持ちなんて、全然分かっていないんだから。
リサーチしていたレストランのドアを、慎也を待たずに開け、不機嫌な顔で入っていく。
ウエイターさんも、一瞬「お二人様のご案内でよろしいですか?」と確認するほどに、慎也から目を背けて、そっぽを向いていた。
さすがに面と向かってテーブルに着くと、彼女の不機嫌を感じ取ったらしい慎也が、上目遣いに茜の顔色を伺う。
全く喋らなくなった茜の代わりに注文もして、困った顔で水を飲んでいる。
「どうしていつもそうなの?」
感情的になって溢れそうになる涙を抑え、茜が下をむいたまま言った。
冷静になろうとする指先が、マニキュアを塗った爪をひっかいていた。
「いつもそうって?」
「わたしばっかりが一生懸命で、あなたは何も自分の気持ちを話さない」
「……そうかな?」
「そうでしょう。電話でだって、いつもわたしばっかりが話してて、今日何かおもしろいことあった? って聞いても、別にしか言わない」
「……それはそうだけど……」
「今日だって、わたしは昨日からすごい楽しみにしてて、やっと会えるっていろんな計画していたのに、あなたは全然楽しみになんてしてなかったんだね。――わたしのことなんてーー」
茜が言いかけた時、ウエイターがテーブルにやってきて、テーブルに一つのカゴを置いていく。
「ローズマリーのフォカッチャでございます」
険悪なカップルの雰囲気にそそくさとテーブルを離れるウエイター。
申し訳ない気持ちもあったけれど、胸に渦巻いてしまった切なさが、吐き出さなければ刃となって突き刺さって苦しかった。
わたしのことなんて、慎也は大切に思ってないんだ。
――わたしのことなんて
その瞬間、茜の鼻をくすぐったのは、芳ばしい小麦の匂いと深い緑を思わせる香りだった。
森の中のパン屋さんを思わせる香り。
鼻から入り込む柔らかな香りに心が深呼吸する。
慎也は自分のことを話そうとしない。でも、わたしの話をちゃんと聞いてくれる。馬鹿にしたり、適当に聞き流すことはしない。
笑顔で頷き、声を上げて笑ってくれる慎也の顔が心の中に思い出される。
顔を上げると、慎也がフォカッチャを手に取って、二つに割いていた。
「これすごいおいしいよ」
「うん。……口コミでもおすすめされてた」
「そうなんだ。だったら俺、すごくいい注文したんだ」
慎也がフォカッチャの香りを吸い込みながら、微笑んでいる。
そして茜にも一つ、手渡してくる。
ほんのりと温かいフォカッチャが、さっきまであった苛立ちを吸い取ってしまったようだった。
「俺が自分のことを話さないのはさ、俺の話なんておもしろくないからだよ。茜の話の方が100倍おもしろい。俺は、もっと茜の考えや毎日を知りたい」
彼にしては、長い台詞だった。
自分が慎也のことを知りたいと思うように、慎也も自分のことを知りたいと思ってくれていたんだ。
フォカッチャをちぎって口に入れると、さらに過去の思い出が脳内を巡った。
茜から握った手に、一瞬びっくりした顔をしたけれど、赤い顔をしながら握り返してくれた慎也。
風邪をひいたと言ったら、大量の薬とおかゆを買い込んでやってきた冬の日。
そんな記憶を見つめていた茜の前に、慎也が握っていた手を差し出す。
「え? なに?」
拳を返し、開いた掌には、不格好な銀の指輪があった。
「シルバーリング欲しいって言ってただろう。昨日仕上げようって頑張ってたんだよ。そしたら気が付いたら朝になってて。ちょっと寝ようと思ったら寝過ごしちゃってさ」
彼の体温で少し温かくなっているリングを手に取り、指にはめる。
歪んでいて、ピカピカとも言えなくて。
でも指にぴったりと納まるそれは、わたしのために作られた、世界にたった一つの指輪だった。
思わず笑みがこぼれた。
指輪をはめた手を見せると、彼もほほえむ。
飲み込んでいた言葉を、気持ちを届けてくれたもの。
それはローズマリーのフォカッチャだった。
〈了〉

香りは、ときどき言葉より先に心へ届く。
次は、ラベンダーの香りのお話です。
