うちのあくびが、また何か言ってる。|ほぼ私だ
洗面所から、あくびの声がした。
「ママちゃん、旅グッズ貸して」
明日から、サークルの海合宿らしい。
「準備した?」
「今からするっちゃ」
明日からなのに。うちの娘、あくびは、だいたいいつもこんな感じだ。自由、という言葉があくびのために作られたのか、あくびが自由という言葉に育てられたのか、もう分からない。ただ、間違いなく自由だ。そして、なぜかママちゃんのことは好きらしい。
自由すぎて、時々こっちが振り回される。でも、あくびがふにゃっと笑う顔を見ると、だいたい全部許してしまう。うちの娘は、そういう笑い方をする。
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去年の夏、あくびは初めてアルバイトを始めた。近所の個人経営の居酒屋だった。店長さんは、いい人だった。怒鳴るわけでもなく、仕事も丁寧に教えてくれる。それなのに、働き始めて半月ほど、あくびは何度か泣いて帰ってきた。
「怒られてないのに、できんくて悲しいっちゃ」
怒られたから泣くのではない。できない自分が悔しくて泣く。そこは妙に真面目だった。玄関で靴を脱ぎながら、目を真っ赤にして、それでも「明日も行く」とだけ言った。そういうところは、意外と強い子だと思う。
店長さんは、泣いているあくびを何度か家まで送ってくれたらしい。
「今日も店長さんが送ってくれたっちゃ」
「優しいね」
「うん」
少し黙ってから、
「優しいけん、余計に申し訳ないっちゃ」
と言った。優しさまで刺さるらしい。めんどくさい子だな、と思った。でも、そういうところは嫌いじゃない。
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ところが、その居酒屋には別の問題があった。暇な日は、早めに店を閉める。ある日、あくびが帰ってきた。
「今日、2時間で終わったっちゃ」
「早いね」
「稼げんっちゃ」
さっきまで繊細だった人が、急に現実の話を始めた。シフトに入っても、お客さんが少なければ早く帰ることになる。当然、そのぶん給料も減る。
「これじゃ全然稼げんやん」
そこは現実的だった。結局、数週間悩んで、そのバイトは辞めた。店長さんには最後まで申し訳ながっていた。でも、店長さんが優しいことと、自分が稼げないことは、あくびの中では、ちゃんと別の話だった。そのへんは意外としっかりしている。
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大学に入って、まだ数日しか経っていなかった。新歓だ、サークルだと、毎日誰かと連絡を取り合っていたあくびが、ある夜、急に言った。
「一人暮らししたいっちゃ」
「入学して何日?」
「関係ないっちゃ」
関係はあると思ったが、黙っておいた。物件を2人で見に行った。駅から少し歩く、1Kの部屋。あくびは部屋に入ると、窓から見える景色をしばらく黙って眺めていた。ちょっと大人になったように見えた。
「ここ、いいっちゃね」

小さく言って、私を見て笑った。その笑顔が嬉しそうすぎて、内心ちょっと寂しくなった。娘が自分の部屋を見つけて笑うのは、母親としてはちゃんと誇らしいことだった。
帰りの電車では、もっと大人になっていた。
「……家賃と生活費と、美容代とか考えたら無理かも」
現実を知ったらしい。
「そう」
「バイトのお金、だいたい服とコスメに消えとるし」
「知ってる」
少し考えて、
「実家が一番コスパいいっちゃ」
と言った。大学に入って数日で自由を求め、数日でそれを引き返す。ずいぶん忙しい数日間だった。あくびの一人暮らしは、物件見学一回で終了した。寂しさを感じる隙もなかった。
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今のバイト先は、時給で選んだ。友達がいる店で、時給が高い店。そこは合理的である。ただし、バイト終わりにファミレスへ行く習慣については、合理性が一切見当たらない。
「ママちゃん、ファミレス行こう」

うどん、丼、そしてデザート。よく食べる。食べている間、ずっと機嫌がいい。うどんの汁が飛んで、テーブルにも私の袖にも跳ねているのに、気にせず喋り続ける。「一緒に食べよう」と言われて、何度もつきあった。結果、私まで少し太った。
ある日、あくびが言った。
「ママちゃんの出勤数、実質私と一緒よね」
たしかに。あくびがバイトに行く。私は仕事をしている。あくびのバイトが終わる。私はファミレスへ向かう。気づけば、娘のシフトに母親まで組み込まれていた。もちろん給料は出ない。それでも、行けば必ず、あくびの今日あったことを全部聞かせてもらえる。それが結局、一番の報酬な気がしている。
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あと、学校には、だいたい私の服を着て行く。聞かれたことは一度もない。朝、クローゼットを見て「あ、減っとる」と気づく。夜、帰ってくると、洗面所の脱衣かごに、畳まれもせず、袋にも入れられず、雑にぽんと置かれている。
「これ、私の」
「知っとる」
「一言くらい」
「ありがとー」
順番が違う。でも、それで済ませられてしまう。何を着ても、あくびが着るとなぜか少し可愛くなる。よく分からないが、悔しくもない。
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そして今日。
「明日からサークルの海合宿」
「準備した?」
「今からするっちゃ」
そして冒頭に戻る。
「ママちゃん、旅グッズ貸して」
話を聞くと、スーツケース、お風呂グッズ、ポーチ、そして「水着も貸して」。ほぼ私の装備で海へ行くつもりだった。
「いいね」
なぜか私は、いいねと言ってしまった。
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そのあと、準備を手伝った。ついでに、あくびのムダ毛処理までしてやった。18歳を過ぎた娘のムダ毛を処理する母。何をしているのだろう、私は。処理をしている間、あくびはずっと鏡越しに私の手元を見ていて、たまに「そこもうちょっと」と注文をつけてくる。文句を言うより先に、その真剣な横顔に少し笑ってしまった。
「あーりがとーーー」
出た。あくびの必殺技。何をしてもらっても、何を借りても、だいたいこれで済ませる。そして本人は、本当に感謝している。たぶん。この言い方をされると、こっちの疲れも一緒に持っていかれる。都合のいい魔法の言葉だと思う。
「ねー、ママちゃん」
「なに」
「運転してくれる人に、何か差し入れした方がええかね?」
手が止まった。私には水着まで借りる人が、他人への気遣いを始めた。
「好みが分からんなら、グミ何種類か買っていけば?」
「そやね、さすがママちゃん!」
さすが、と言われるほどのことではない。でも悪い気はしない。結局、私はこうやって使われる。そして、わりと喜んでいる。
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あくびを見ていると、いじりたくなる瞬間が毎日ある。自由になりたいと言って一人暮らしの物件を見に行き、生活費を計算して実家に戻ってくる。時給には厳しいのに、バイト終わりのファミレスではよく食べる。服も水着もスーツケースも黙って借りていくのに、他人への差し入れは、ちゃんと考える。ツッコミどころは、かなり多い。
でも不思議なもので、いじろうとすると、その少し手前で愛おしさが勝ってしまう。理由の半分は、たぶんあの笑い方だ。困っていても、甘えていても、失敗しても、最後はだいたいふにゃっと笑って「あーりがとーーー」で終わる。それを見ると、こっちの文句もだいたい溶けてしまう。
たぶん私は、おせっかいなママでいたいわけではない。あれこれ口を出して、「こうした方がええ」「それはやめた方がええ」と、正しい道へ戻したいわけでもない。少しだけ先を歩いてきた女として、隣にいられたら、それでいい。
バイトを辞めたのも、一人暮らしを諦めたのも、あくびが自分で考えて決めた。泣くのも、悩むのも、諦めるのも、また何か始めるのも、全部あくびの人生だ。私にできるのは、たまに話を聞いて、ファミレスにつきあって、グミを提案して、必要ならムダ毛を処理するくらいだ。それで十分な気がしている。
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あくびは今も、明日からの旅の準備をしている。私のスーツケースに、私のお風呂グッズと、私のポーチと、私の水着が入っていく。ほぼ私だ。
「あーりがとーーー」
また聞こえた。自由すぎるとは思う。でも、たぶん、これくらいがちょうどいい。
明日から海。あくびは、私の旅グッズ一式を持って、自分の人生を楽しみに行く。
気をつけて行ってらっしゃい。
水着は返してね。
服は、洗って返してね。
(また何か言ってるんだろうな、と思いながら)

