#70 心が通じない人と生きる絶望
11月。
元夫がいつものように言った。
「年末年始どうする? 台湾にでも行こか」
友人のシオリを亡くして1ヶ月。
少し前には父が逝った。
実家の母とは距離が出来た。
立て続けの別れ。
私は心の行き場を失っていた。
けれど元夫にとっては、
“自分には無関係” “過ぎたこと”
一度だけ、父のことに触れたことがある。
「お義父さん、生命保険入ってたん?」
理由を尋ねると、
「お義母さん、生活大丈夫なんかなと思って。心配やん、アズちゃんのお母さんやから」
——あの時は、
「元夫なりに、心配してくれた」と思った。
でも今考えれば、あれは
——母の懐具合を探っていたに違いない。
父が亡くなってからの元夫は、前にも増して
雑になっていった。
会話は減り、私に興味を示さない。
趣味には変わらずのめり込み、
金策に困るような素振りすら見せた。
「馬の賞金で返すから、3万円貸して」
そんな無心をされたこともある。
夫婦仲は、明らかに冷えていった。
⸻
旅行の提案には戸惑った。
でも「台湾」という言葉には心が動いた。
行きたい場所があったから。
「新北投温泉」
天然のラジウム泉。
“がんに効果がある” と読んで、
父が弱っていく中で、
「連れて行けたら」と思っていた場所。
でもその願いはもう叶わない。
それに、もし父が生きていても、
元夫がいる限り、難しかっただろう。
——この人、なんで
いつも私の邪魔をするんやろう?
悲しみを倍にして
楽しみを半分に削ろうとする。
いつも、そう。
何かにつけて、立ち塞がる。
道の先に、ハードルを置くように。
普通の人は平坦な道を歩いているのに、
私の道にだけ、ハードルが並んでいる。
そんな感覚。
どこの家でもそうなん?
夫ってそんなに面倒な生き物なん?
——友人たちを見て、そうは思えなかった。
みんな小さな不満はあれど、
のびのび幸せそうに暮らしている。
私がおかしいの?
「新北投温泉に行きたい」
そう伝えると、元夫は頷いた。
「ええよ」
素直に嬉しかった。
——その時までは。
⸻
数日後。
元夫が目を輝かせて言った。
「なあアズちゃん、新幹線で台湾縦断しようや!
乗り放題プラン見つけた!めっちゃ安いねん!」
はあ?!
何それ?
新北投温泉はどこ行った?
私が伝えた「行きたい場所」は
跡形もなく消えていた。
元夫は鉄道マニア。
旅はいつも “乗り物” が主役になる。
もちろん楽しい瞬間もあったけれど、
正直、疲れる。
私は「新北投温泉に行きたい」と言ったのに。
「いい加減にしてよ!」
気づけば大声が出ていた。
「私は新北投温泉に行きたいって言ったやん!
新幹線なんかいらんし!
もしチケット勝手に取ってても知らん。
温泉に行かへんのなら別行動する。
それもダメなら、私は旅行には行かへん!」
元夫の表情が一瞬固まった。
「アズちゃん、1人で動けんやろ?」
——その言葉で、スイッチが入った。
「台北は何度も行ってるから1人で平気。
治安もいいし英語も通じるし。別行動したい」
淡々と告げると、元夫は押し黙った。
旅程は差し替えられた。
新北投温泉は、台北から日帰り可能な距離だが、
1泊する形に変更された。
⸻
12月に入り、私は体調を崩した。
忘年会の鳥刺しに当たり、
腹痛と発熱で動けなかった。
寝ている私を見ても、元夫はいつも通り。
「旅行までには治してや」とだけ言った。
面倒そうに。
その冷淡さに、1つの疑念が脳裏をよぎった。
——この人、浮気してるのかも。
旅行中の元夫は、驚くほど低姿勢だった。
食べたいもの、行きたい場所、全部
「アズちゃん優先」。
お土産も渋らず買ってくれた。
(今さら……)
そう思ったけれど、黙っていた。
元夫は “譲歩した自分” に酔っているだけ。
SNSには「妻の希望で来ました」
と、しれっと書かれていた。
私が望んだのは、
“連れてきてもらう旅行” じゃなくて、
「一緒に感じてくれる旅」
「今年は辛いことが多かったけど、頑張ろな」
その一言があれば、私は救われた。
父のこと。
シオリのこと。
私がどれほど心を削られた1年だったか。
元夫は、一度も触れなかった。
台湾のグルメも、温泉も、観光も、
全部 “楽しませた実績” を作るための舞台でしかなかった。
都合の悪いことを、楽しい記憶で上書きして
なかったことにする。
——これが元夫の、いつもの手口。
人の死まで
「なかったこと」にできると思ってるの?
そんなはず、ないのに。
⸻
この旅行で、私は確信した。
この先の人生、
この人とは一緒に歩けない。
あと30年?40年?
長すぎる。
ていうか、嫌やわ。
ストレスで早死にするの確定やん。
そんな思いが、胸に静かに沈んでいく。
でも、じゃあどうすればいい?
答えの出ない問いが、頭の中を回り続けている。
——そして、この台湾が、元夫との最後の旅行になった。
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