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第6話 顧客は、全員です


第一部|第2章 100点の問題

誰に話を聞くか。

それが、相馬から次に出された宿題だった。

顧客にとって重要な課題を見つけるには、顧客に話を聞かなければならない。だが、日常的に買い物をする人を、片端から訪ねるわけにはいかない。

翌朝、玲は会議室の白板に、大きな円を描いた。

円の中へ書いたのは、ひとことだけだった。

日常的に買い物をする生活者

その下には、総務省の統計から拾った世帯数と、年代別人口を並べてある。さらに、買い物へ行く頻度を仮定し、国内で一年間に発生する買い物の回数まで計算した。

エコバッグを使う可能性がある人は多い。

玲は数字を眺めた。

顧客が誰か分からないと言われたから、数字で示した。これなら昨日より、ずっと具体的だ。

午前十時ちょうど、相馬が会議室へ入ってきた。

倉橋が用意した入館証を首から下げている。外部の人間なのに、玲よりこの部署へ馴染んで見えた。

相馬は白板の円を見上げる。

「一晩で、ずいぶん増えたね」

「もともと多いんです」

玲は円の下にある数字を指した。

「顧客は、日常的に買い物をする生活者です。性別を問わず使えます。単身者でも家族世帯でも必要です。環境意識が高くない人にも、レジ袋代を節約する価値があります」

「つまり?」

「ほぼ全員です」

相馬が椅子を引いた。

「昨日、誰か分からないと言われた顧客が、一晩で全国民になった」

「対象を勝手に狭める理由がありません」

「まず決めたいのは、商品を売る相手じゃない。課題を知るために、最初に誰へ話を聞くかだ」

「じゃあ、最初に何人かへ話を聞くとして、誰に声をかける?」

「年代と性別が偏らないようにします。二十代から六十代まで、男女を均等に——」

「その人たちから、同じ答えが返ってくると思う?」

「違いを見るために分けるんでしょう」

「どんな違い?」

玲は白板へ向き直った。

男性と女性。単身者と家族世帯。二十代、三十代、四十代。

ペン先を白板へ近づけたまま、手が止まる。

どの違いが、バッグへの困りごとの違いにつながるのか。それを説明しようとすると、年齢と性別以外の言葉が出てこなかった。

相馬が玲のペンを借りた。

「高瀬さんは、スターバックスとドトール、どっちを使う?」

「質問が急ですね」

「どっち?」

「両方使います」

相馬が振り返る。

「どう使い分けてる?」

玲は、営業時代の一日を思い出した。

「客先へ行く前に一時間くらい空いたら、スターバックスに入ることが多いです。パソコンを開いて、資料を見直したいので」

相馬は白板へ書く。

客先へ行く前の一時間
資料へ集中したい
→ スターバックス

「ドトールは?」

「次の訪問まで十五分しかないときですね。コーヒーだけ飲んで、すぐ出ます」

その隣へ書き足す。

訪問と訪問の間の十五分
手早く休みたい
→ ドトール

「でも、スターバックスでも急いでいる人はいますし、ドトールで仕事をしている人もいます」

「もちろん。店が人を決めるわけじゃない。今見たいのは、高瀬さん自身が、なぜ使い分けたかだよ」

相馬は二つの場面を一本の線で結んだ。

「年齢は?」

「三十です」

「年収は?」

「言いません」

「性別は?」

「見れば分かるでしょう」

「その属性は、朝と昼で変わった?」

「変わりません」

「でも、選んだ店は変わった」

玲は白板を見た。

同じ人物が、午前中にはスターバックスを選び、昼にはドトールを選ぶ。

「売っているのは、どちらもコーヒーです」

「欲しかったものも、同じ?」

「違います。朝は集中できる時間。昼は、短い休憩です」

相馬がうなずいた。

「ゴンチャへ行くことは?」

「たまに。友人と買い物をしているときに」

「そのとき欲しいのは?」

「飲み物を選ぶことも含めて、友人と楽しむ時間……ですかね」

相馬は白板へ、三つ目の場面を加えた。

友人と過ごす休日
一緒に選び、話して楽しみたい
→ ゴンチャ

「同じ飲み物の市場でも、集中したい場面、手早く休みたい場面、誰かと楽しみたい場面では、求める価値が違う」

「人ではなく、場面を分ける」

「正確には、購買の文脈を見る。同じ人でも、置かれた場面によって重視する価値が変わるんだ」

相馬は、テーブルに置かれていた未開封のペットボトルを持ち上げた。

「この水、今の高瀬さんなら、いくらで買う?」

「二百円くらいまでです。ここなら、少し歩けばコンビニがありますから」

「五百円なら?」

「買いません」

相馬はボトルを白板の前へ置いた。

「では、ここが砂漠だったら?」


「砂漠?」

「丸一日、水を飲んでいない。喉が渇いて、もう歩くのもつらい。次に水が手に入る場所も分からない」

相馬が、透明なボトルを指先で軽く弾いた。

「そのとき、この一本にいくら出す?」

玲はボトルを見た。

「一万円でも、買うと思います」

「同じ水なのに?」

「必要性が違います」

「高瀬さんの年齢も、年収も、性別も変わっていない」

「変わったのは、置かれた状況です」

「そして、その状況で何を重視するかだ。同じ五百ミリリットルの水が、今は二百円で、砂漠では一万円になる」

相馬は、白板に残る三つの店を順に指した。

「だから、属性で人を固定した箱へ入れるだけでは足りない。その人が、どんな場面で、何を必要とし、何に価値を感じるかを見る」

相馬は、最初の大きな円を指した。

「人を分けること自体が目的じゃない。困りごとや、求める価値が違う集まりを見つけるために分ける」

「全員を顧客にすると、一人ひとりの違いが、この円の中で消える」

玲は円を見た。

人数の大きさを示すために描いたものが、今は何も見えなくする蓋のように思えた。

「でも、最初から絞ったら、市場を小さくしませんか」

「最終的に誰へ売るかを、今日決めるわけじゃない」

相馬は白板に残る三つの利用場面を囲んだ。

「今決めるのは、最初に誰を深く見るかだ」

「同じことでは?」

「違うよ。最初に話を聞く相手を選ぶのは、ほかの人を捨てるためじゃない。限られた時間で、学びを濃くするためだ」

相馬は玲の机に置かれた紙ナプキンを取った。昨日、課題の質を判断する四つの問いを書いたものだ。

「100点の課題を持っていそうなのは、誰だろう」

玲は白板へ、買い物の違いを書き出した。

頻度。

一度に買う量。

徒歩、自転車、車。

一人か、誰かと一緒か。

買い物の前後に、別の用事があるか。

今は何を使い、どう対処しているか。

年齢と性別だけで分けていたときより、生活の場面が少しずつ見えてくる。

「買い物の回数が多い人ほど、小さな不便でも積み重なります」

玲は言った。

「その前後に仕事や送迎、介護のような別の用事が続いていれば、時間にも余裕がない。まずは、そういう生活をしている人を見ます」

相馬は何も言わない。

玲は続けた。

「日常の買い物を高い頻度で行い、その前後に別の用事が連続している生活者」

白板の大きな円を消し、その言葉を四角で囲んだ。

「まず、この人たちに話を聞きます」

「正解?」

「仮説です」

相馬が、わずかに笑った。

「そういうこと」

相馬は白板の端に、二つの言葉を書いた。

セグメンテーション
ターゲティング

「今やったことを整理しよう」

最初の言葉へ線を引く。

「求める価値が似ているまとまりになるように、市場を分ける。これがセグメンテーション」

次の言葉へ線を移す。

「その中から、自分たちはどんな価値を重視する人に向き合うかを選ぶ。これがターゲティング」

「最初からそれを説明してくれれば、早かったんじゃないですか」

「説明を聞いただけで、スターバックスとドトールを使い分ける理由まで分かった?」

玲は答えず、白板へ視線を戻した。

相馬が四角で囲まれた言葉を指す。

「これは、商品を売る相手の最終決定じゃない。今は、誰の課題から確かめるかを決めた仮説だ」

玲はノートパソコンを開いた。

営業時代の知人と社内の人間を思い浮かべ、条件に合いそうな人を探す。最初に浮かんだのは、営業部の商品企画を担当する女性だった。保育園児を育てながら働き、帰宅途中にスーパーへ寄ることが多いと聞いたことがある。

玲はメッセージを送った。

新しい事業の調査で、普段の買い物についてお話を聞かせてもらえませんか。
エコバッグで困っていることなど、率直に伺いたいです。

間もなく、返信が届いた。

協力するのは大丈夫です。
ただ、エコバッグで困っていることは、特にないですよ。

玲は画面を見たまま動かなかった。

昨日伏せたはずの答えを、自分がまた先に見せていたことには、まだ気づいていなかった。

FIXITの事業開発ノート

良い答えを作る前に、解く価値のある課題を選ぶ

玲は、軽量、撥水、耐久性、価格、販路を考え、エコバッグという「答え」の精度を上げることから始めました。

しかし、どれほど優れた解決策でも、顧客にとって重要ではない課題を解いているなら、事業として生み出せる価値は大きくなりません。最初に確かめるべきなのは、解決策の出来ではなく、誰にとって、どの課題が、どれほど重要なのかです。


解を磨く前に、解く価値のある課題を選ぶ。

課題の質を考えるときは、少なくとも次の四つを確認します。

  1. 大きさ:その課題によって、どれほど大きな負担や損失が生じているか

  2. 切迫度:いつか解決したいのか、今すぐ解決したいのか

  3. 支払意思:言葉で困っていると言うだけでなく、時間やお金を使ってでも解決しようとしているか

  4. 独自性:ほかの企業がまだ十分に気づいていない、または解決できていない課題か

四つすべてを必ず満たすという意味ではありません。複数の課題候補があるときに、限られた人、時間、資金をどこへ使うか判断するための視点です。

顧客を「全員」にしない

市場に人が多いことと、強い課題を持つ顧客がいることは同じではありません。「日常的に買い物をする生活者」と広く置くだけでは、誰が、どんな場面で、何に困っているかが見えなくなります。

同じ人でも、客先前に集中したいとき、移動の合間に短く休みたいとき、休日に友人と楽しみたいときでは、選ぶ店と重視する価値が変わります。年齢や性別などの属性だけでなく、置かれた状況、行動、求める価値を見る必要があります。

  • セグメンテーション:求める価値や行動が似たまとまりになるように、市場を分けること

  • ターゲティング:その中から、どんな価値を重視する人へ向き合うかを選ぶこと

この段階のターゲットは、商品を売る相手の最終決定ではありません。最初に誰を深く理解し、誰の課題仮説から確かめるかという仮置きです。

玲は最初の対象を、次のように置きました。

日常の買い物を高い頻度で行い、その前後に仕事、送迎、介護など、別の用事が連続している生活者

自分の案件へ持ち帰る問い

  • 自分たちは、顧客の課題と解決策のどちらから考え始めているか

  • その課題は、誰にとって大きく、切迫しているか

  • 顧客は今、その課題へ時間やお金を使って対処しているか

  • 同じ属性の人でも、場面によって重視する価値は変わらないか

  • 最初に深く話を聞くなら、どんな状況に置かれた人を選ぶか

玲は、話を聞く相手を仮置きできました。ただし、その人を具体的に理解したわけではありません。次に必要なのは、統計上の集まりではなく、一人の生活と感情が見えるところまで顧客像を深くすることです。


次回|第7話「一人の顔」

ただ、エコバッグで困っていることは、特にないですよ。

返信を読み返しても、文面は変わらなかった。

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