小野フランキスカの断言
(それをそう言ってよければ)「うまれた」ばかりの小野フランキスカをやさしく抱きしめてくれたのは、栖庫安寿子ただひとりだった。
夫は「へその緒もなく生まれてくるいのちなど医学的にありえない」と棄ててしまいたがったが、安寿子はそれをひきとめた。安寿子にはあながち「ありえない話」でもなかった。
夢でみた蛍のような光。
お腹のなかに飛びこんできたその蛍火が、いま、一個の生きもののかたちとなって安寿子のまえに現れたのだとしたら、それは棄てることのできない縁だと思われた。
夫は折れたが、わが子といっしょに育てることはできない、栖庫の家にもわが子にも近づけさせてはいけない、離れたところで世話をさせると厳しい調子で断言した。
安寿子は、ふだんとちがう夫のようすから、この子と夫とのあいだにはなにか因縁があるのだと察した。
だから、安寿子も折れた。いつか納得のいく説明をしてね、とだけ伝えた。
じぶんのふところで眠るその生きものを、安寿子はわが子と変わらぬいとおしさで抱き、見つめた。
なんの憂いもないしあわせな顔だと思った。
ふいに安寿子の脳裡で短い音のつらなりが響いた。夫を見て、言った。
「ねぇ、与志さん わかった」
いぶかしげな顔で安寿子を見返す夫に告げた。
「フランキスカ この子の名は、フランキスカ」
栖庫の家からおとなの足で一時間ほどの道のりを、安寿子は時間をつくってはフランキスカに会いにいった。
会うとフランキスカはいつも元気がないようにみえた。栖庫からよこされた世話係に、ちゃんと面倒をみているのかと訊いた。世話係はきまって「ええ、まあ」とことばを濁し、目を逸らした。その世話係の人間もどこか弱ってみえ、じっさいになんども世話係は代わった。
会うたびに安寿子はフランキスカをその胸に抱いた。そうするとフランキスカはげんきをとりもどすようにみえた。ただフランキスカを抱いた日は、どっと疲れた。安寿子はそれを往復の道のりのせいだと考えた。
あるとき安寿子は世話係のひとりから相談をもちかけられた。毎朝、フランキスカの枕もとにちいさな生きものの死骸が転がっている、それもひとつやふたつではなくこんなに、と取っておかれたそれらを見せられた。
さいしょ安寿子は出来の悪い作り話だと思った。だが、すくなくない報酬をもらっていながらわざわざそんな話をこしらえる理由がわからなかったし、本気で気味悪がっているようすをみると、嘘ではないと信じるようになった。
薬剤を散布してとじまりを厳重にするようにと伝えたが、世話係がどんなに気をつけても生きものたちはどこからともなくフランキスカのもとへやってきて、骸をよこたえつづけた。
世話係がフランキスカをあからさまに避けるようになっても、安寿子だけはフランキスカを抱きしめつづけた。
もとからからだが強くはなかった安寿子は、わが子が三つになるより早く、この世を去った。
安寿子と与志の娘・ナオが三つになったとき、庭師の當眞さんといっしょにおでかけすることがあった。
當眞さんが用事を済ませるあいだ、ナオは公園でちょっと待ってるようにと言われた。家から離れたところでは知っている友だちもいなくて、ブランコをこいでも鉄棒にぶらさがってみてもすなばでおやまをつくっても、ひとりではぜんぜん楽しいきぶんにならなかった。
(つまんない)
やることのなくなったナオはどこかに座っていようと思い、あたりをぐるりと見まわした。
視線の先には座るのにうってつけのベンチもあったのだけど、ナオの目はそこじゃない一点に引き寄せられた。
公園の端っこ、植え込みのそばにひとりのおんなのこがしゃがみこんで、じっと地面を見つめている。
ナオはその子もひとり遊びをしているのだと思って、かってに親近感を抱いた。かってに足が動きだし、近寄って声をかけた。
「なにしてるの?」
おんなのこは声のした方をちょっとだけ見て、すぐにまた視線を戻し、「ありみてる」と言った。
ナオは「ふーん」と返して、アリには興味なかったけれど、アリなんかをひとりでずっと眺めてるその子のことにがぜん興味がわいた。
となりにしゃがみ、その子の視線の先をのぞきこんで訊いた。
「ね、なにがおもしろいの?」
その子はアリの行列を見つめたまま言った。
「このこたち もうすぐしぬの」
「しぬ」と聞いたとき、ナオはすこしまえに死んだ母親のことを思い出したが、いまめのまえのアリが「しぬ」と言われてもよく意味がわからなかった。けれど、つぎにめのまえで起こったことを見て、ナオはぎょっとする。
その子がアリの列に手を伸ばし、そのなかの一匹に触れたと思ったとたん、触れられたアリが動かなくなった。
指で押し潰したのではなかった。ただ指のさきでそっと触れただけだった。
ナオはそれをこわいとは思わなかったけれど、なぜだかいやな気がして、その子に言った。
「それ、もうしないほうがいいよ」
ナオのことばを聞いて、その子はゆっくりと手を引っ込めた。となりにしゃがむナオを見て、「でも」と言った。
「こうしないと、わたしがしぬ」
それがナオとフランキスカのさいしょの出会いだった。
「きょうね、おともだちができたんだ」
かえりみち、さっきのことを當眞さんに話そうとして、そういえば名前聞かなかったな、と思い出す。
「よかったですね なにして遊んだんですか?」と訊かれたので、「ありみてた」と答える。
「生きものがすきな子なんですね」と當眞さんに言われて(それとはちょっとちがうな)と思ったけれど、「アリをころしてた」なんて言うのはいけない気がして、「うーん、どうかな」とだけ言う。あれは、ころしてたっていうのともなんかちがう気がするし。
當眞さんはちょっとへんな顔をしてたけど、それ以上はなにも訊いてこなかった。
それからナオは、當眞さんがアリの子の公園の方へ用事があるときはいつもいっしょに着いて行きたがった。
アリの子はいつもいるわけではないようで、なかなか会えなかった。
なんどめかのとき、ようやくアリの子を見つけたナオはうれしくて駆けよった。
まっさきにじぶんの名を告げた。
「なまえ、なんていうの?」と訊いて、返ってきたのが耳慣れない響きだったからもういちど訊く。
アリの子はそんなナオのようすを察して、こんどはゆっくり「ふ」「ら」「ん」「き」「す」「か」と音にする。
ナオは聞きとった音のひとつひとつを、ビーズに糸をとおすようにだいじにつなぎあわせる。
六つの音が連なってひとつの響きを奏でたとき、ナオの頭の奥にビリビリするものが走って、ナオはハッとする。ビリビリはすぐに走り抜けていき、そのあとなんだかとてもあたたかいきもちが満ちてくる。
「ふらんきすか? わたし、すきだな、ふらんきすか 」
フランキスカには、どうしてナオがそんなにうれしそうなのかふしぎだった。
「そう、ふらんきすか おのふらんきすか」
ナオはへへっとわらい、フランキスカの名を何回も口にしてみる。ときどきうまく言えなくて「おの」が「おにょ」になったり、「ふらんきすか」が「ふらんきしゅか」になったりしたけど、それもいちいちおもしろくて、言い間違えるたびにナオはあははとわらった。
あんまりナオがおかしそうにわらうから、つられてフランキスカの口もともほころんだ。
「わたしも、なお、がすき」
フランキスカが言ったのはちがう意味だったけれど、ナオはわらいすぎて涙が出てくる目をこすって、「ありがと よくおとこのこのなまえみたいってゆわれるけどさ」と言って、またわらう。
いつものようにナオがフランキスカと公園にいるとき、ナオはフランキスカの視線が子どもを連れた母親に注がれているのに気づく。
そういえばフランキスカはいつもひとりだなと思い、「おかあさんは?」と訊いてみる。
フランキスカは、「いない」と言った。
ナオにはそのほんとうの意味を知るよしもなかったが、フランキスカもじぶんとおなじなんだと思うとうれしくなって、「わたしもなんだ」と伝えた。
しぜんとナオの手が伸びて、フランキスカの手をとった。ぎゅっと、にぎった。
「こんどうちにあそびにきて」と誘って、「またね」と別れる。
ナオにはもう、フランキスカとの「またね」が当たりまえに感じられていたから、それからしばらくフランキスカと会えなくなったのは、ナオにはたえがたい苦しみだった。
ナオがフランキスカの手をにぎったその日、かえりみちからようすのおかしかったナオは、家に着くなり倒れ込んだ。
當眞さんがすぐに手当てをしてくれた。医者に診てもらっても、原因がわからなかった。
ナオはふとんにくるまりながらずっとフランキスカのことを考えていた。
「またね」っていったのにいけなくてごめんね、おこってるかな、きらわれちゃったらやだな、あやまったらゆるしてくれるかな、っていろんな思いがあたまのなかでぐるぐるまわり、うわごとのように「ふらんきすか」と名をつぶやいた。
それはあまりにもかぼそくて、舌もまわらず「ふらんきしゅか」みたいになっていたけれど、父の与志は聞き逃さなかった。
當眞にナオを遊ばせている公園の場所をたずね、じっさいに赴き、そこにフランキスカをみたとき、与志はしまったと思った。
消え失せたはずの小野が、ふたたび栖庫のまえに現れたのだと思った。
もう手遅れなのはナオのようすから察したが、打てる手は打ちたかった。
當眞には二度とあの公園にナオを連れていってはいけないと言いつけ、ナオにはもう二度とそのおともだちに触れてはいけないと釘を刺した。
数週間経ってようやく回復したナオがいくらおねがいしても、當眞さんはナオを公園に連れていってはくれなかった。
だからナオはひとりで公園に向かった。
栖庫の家からおとなの足で一時間ほどの道のりは、三歳そこらの子どもの足には果てしない彼方に感じた。
ナオがやっとのことで公園にたどりついたときにはすっかり陽は傾いて、ひとやものの影を長く伸ばし、世界をオレンジ色に包んでいた。
そこで遊んでいたはずの子どもたちはとっくにおうちに帰っていた。
そして、フランキスカは、いつものそこにいた。
ヘトヘトになったナオをみつけて「や」と手をあげてくるフランキスカをみると、ナオはからだじゅうのこわばりがとけて、涙が出た。
「だいじょうぶ? わたしのせいだとしたらごめん」
ナオの顔をのぞきこんでくるフランキスカは、心配してくれているのだろうけれど、声も顔もそっけなくて、そんなのもいつものフランキスカだと思うと、ナオはうれしくなる。
「わたしのほうこそ、ごめん」と、約束をまもらなかったことを謝って、来れなかったわけを話した。
フランキスカは「やくそくなんてどうでもいいけど」と前置きし、それはナオをさみしく思わせたけれど、かまわずことばをつづける。
「もうわたしにさわらないほうがいいよ」
フランキスカが父親とおなじことを言った。
言っている意味はわかった。まえにフランキスカがアリのいのちを消すのを見ていたから。
だけどナオは、そんなのいやだ、と思った。
フランキスカをひとりにさせたくなかった。
それは半分正しくなくて、ほんとうはナオがフランキスカから離れたくなかった。
だから、ナオを遠ざけようとするフランキスカのことばのなかに、ナオはかってにフランキスカのさみしさを感じとろうとした。
ほんとうのフランキスカはナオがいてもいなくてもへいきなはずなのに、ナオはフランキスカにはじぶんがいなければいけないと思いたかった。
「わたし、ふらんきすかにさわられてもへいきでいられるようになるから」
ナオはいますぐにでも触れたいきもちをがまんして、そう宣言する。
あいかわらずフランキスカの表情はきもちを読みとれないほどそっけなかったけれど、ナオにはもうフランキスカがなにを考えてるのかわかるようになっていたから、いまはたぶん、困ったなって思ってるのがわかる。
困ったって知るもんか。
「まってて わたしがふらんきすかをいっぱいぎゅーするから」
ナオが断言する。
「なおがしんじゃう」
フランキスカが言う。
「しなない」
ナオはまた断言する。
「ふらんきすかといきる」
うまくことばにはできなかったけれど、ほかのだれにもそれができなくてもわたしだけはそうする、とナオは言ったつもりだった。
フランキスカは、あきれたのか根負けしたのかあはっとわらって、「へんなの」と言う。
それはナオをばかにするとかきもちわるがっているという感じではなかったから、ナオもえへへとわらう。
「じゃあ、わたしもなおといきる」
フランキスカがひかえめに断言する。
しばらく見つめあったふたりが言う。
「だいすき」
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ちゅーる代