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カイエ(雑記帳)# 21「答合わせ」

誕生日に行くはずだった宮島旅行は雨で流れてしまったので、仕切り直しで少し遅れたバースデー旅行に宮島を旅してきた。

広島に住み始めてから意外なことに、私は一度も宮島に行ったことがない。

「厳島神社の御祭神は女性の神様だから、嫉妬されて恋人や夫婦は別れてしまう」という迷信を、夫は嘘のような話だが本気で信じていた。私が何度「参拝したい」と言っても、夫は頑なに首を縦に振らなかった。

宮島は、ワンちゃんも入島できる。そして写真で見る可愛い鹿たちの姿(目や表情、耳の形やお尻のもふもふ感が)何だかフジ子に被って見えて、私はどうしてもフジ子と宮島に行ってみたかったのだ。

しかし、フジ子の存命中は行くことが叶わなかった。

ところが「今年の誕生日は何がいい?」と聞かれた時、私は咄嗟に「宮島旅行に行きたい」と答えていた。そして夫の答えは予測できたので、あらかじめ先回りだ。

「今言いたいことはわかるわよ。でもね、神様に嫉妬されて別れるっていう話ならね…それどころじゃない話でもうとっくに別れてるでしょ?」

もっともな話である。夫は返す言葉もなく、というよりむしろ妙に納得して「それもそうだよな」と言った。いい傾向である。

いまから2年前。つまりフジ子が亡くなる半年前、私の大学病院での検査に付き添ってフジ子が一緒に旅してくれたことがあった。

その時、私がどうしても宮島が見たいと、対岸の宮島口にまではやってきたのだが、夫の強い「反対」(すなわち、いつもの「不機嫌沈黙戦法」である!)により、私たちは「宮島旅行」という名のもとに、対岸の宮島口の温泉に入り、同じく対岸の名店「うえの」で「焼きアナゴ弁当」を買ったところで帰宅した。宮島に上陸さえしない「宮島旅行」である。

今回こそ、私はどうしても念願の宮島に「上陸」したい。

そしてもうひとつ。あの頃、小さな軽ワゴンでフジ子と車中泊させていただいた思い出の残る「べにまんさくの湯」を、再訪したかったのだ。

当時はフジ子を車内に待たせておけないので、私と夫がほとんどカラスの行水のように急いでお湯に入り、交代でフジ子を見ていた。車中泊仕様の小さな軽ワゴンで、2人と1匹でいろいろなところを旅していた。

といっても、あの時期の「旅」は、それまでの楽しい「おでかけ」というより、私たち家族三人(二人と一匹)が、夫の実家からの呪縛を逃れて新天地を探すという、先の見えない逃避行に近いものだった。

そんな形ではあったけれど、フジ子との最後の一年間に身を寄せ合って行き先を探して旅した時間は、今となっては何ものにも替えられない、愛おしくてならない宝物だ。

狭い車内だったが、それなりにDIYをしてフジ子と3人くつろげるような空間だった。夜は温泉から上がってきたほかほかの私の頭に、フジ子は犬枕のように丸く覆いかぶさって寝るのが定番だった。

やがてフジ子の体力が少しずつ弱ってくる中で、フジ子への負担はもう無視できなくなった。そしてついに一大決心したキャンピングカーがやってきた時、逆に広くなったスペースでフジ子と少し離れて眠ることが、私をどこか寂しい気持ちにさせた。そしてそれが思いもかけず、フジ子との最後の旅になってしまった。

話を戻そう。同じ「べにまんさくの湯」で受付の方に尋ね、今回もご厚意で仮眠を取ってから朝出発させていただけることになった。

待っているフジ子のいない車内には急いで戻る必要もなく、私たちはゆっくりとお湯を楽しんだ。対岸に見える宮島の夕暮れや、日没後の遠景にまばゆく輝く工業地帯の夜景を堪能し、閉館ギリギリに駐車場に戻ってきた。

キャンピングカー・フジ子号のダイネットのテーブルの上には、いつものようにフジ子が、大好きだった自宅のソファーの上で主(あるじ)のように優雅にくつろぐ姿で、満面の笑みで待っている。

「ただいま、フジ子。いいお湯だったよ」

写真に向かっての私のルーティンを、フジ子はいつも変わらぬ笑顔で出迎えてくれる。

ふと車の後方を見上げると、美しいクリスマスツリーのようなイルミネーションが光を放っていた。

 「フジ子号」とイルミネーション

2年前にフジ子と一緒に泊まった時の駐車場の区画を思い出しながら、少し周りを歩いた。フジ子が用を足した駐車場脇の茂み。「人力車椅子」(手押し車)をしてあげると、信じられないような勢いで私を引っ張るように登り始めた緩やかな傾斜の坂道。まるで今もフジ子がそこを歩いているようだ。

あんなに練習した車椅子だったが、当時のフジ子はもう車椅子の重さを引っ張ることができなくなっていた。

けれど、フジ子の下半身を支えてトイレをさせたあと、そのままトコトコと私を引っ張るようにして嬉しそうに歩き出したところからヒントを得て、私たちが「人力車椅子」となり、フジ子の後ろから骨盤を支えて少し持ち上げ力を添え伴走すると、フジ子はまた元気に自力で前足で歩き出したのだ。

そこからは、この「人力車椅子」で歩くのが大のお気に入りになった。フジ子は、最後まで歩くことを諦めなかった。

「フジ子と来た時、こんなのあったっけ?」「フジちゃん、こういうの、好きだったね。」そんな話をしながら、日本全国を巡る旅はまだまだ続きそうだ。

自然に囲まれた山あいの駐車場はとても静かだった。新月の暗闇の中で、辺りには虫の音と、時々木々が風に揺られて触れ合うサワサワという心地良い音だけが響いていた。クーラーをかけることもなく、少しだけ窓を開けて朝までぐっすりと眠った。

朝一番で早起きをし、ネットで予約してあった駅前駐車場にフジ子号を停め、フェリー乗り場に向かう。

出発前、Geminiに訪れたい場所や旅のコンセプトを伝え最適な日程を組んでくれるよう頼むと、駐車場(キャンピングカーの高さ制限まで考慮して)の選定からフェリーの選択まで、まるでホテルのコンシェルジュのような見事な行程を組んでくれた。さらに…

「ご希望の内容に沿って、日中のうちに十分な時間をかけて大聖院を参拝されることをお勧めします。

また当日はちょうど大潮にあたり潮の満ち引きの差が大きいので、午後3時50分の干潮に合わせて大鳥居まで歩ける時間に厳島神社参拝を目指してください。夕方、再び大聖院で灯籠祭りを楽しんでから下山し、島を離れる時間に見るライトアップされた社殿は、新月の暗闇の中、満ち潮に包まれ海から美しく浮かび上がってまったく別な姿を見せてくれていることでしょう」

等々、パーフェクトで詩的な美しいスケジュールを作ってくれたのだ。 潮の満ち引きや新月のタイミングまで考慮して人間の手で調べようと思っても、なかなか気がつくものではない。

因みに、フェリーの運航会社は二つあるが、そのうちJRフェリーの方は、昼間の時間帯は大鳥居のそばまでぐるっとサービス回遊をして宮島に向かってくれる。今回利用したのはそちらだ。宮島口からフェリーに乗り込み15分ほどすると宮島に着く。

フェリーを待つ間、インフォメーションで地図をもらい、今日訪れる予定のもう一つの目的地、真言宗御室派大本山「大聖院」について案内を聞いた。大聖院では、この日(9月11日)ちょうど『灯籠祭り(萬灯会)』が執り行われ、境内中に灯されるローソクの光とともに平和への祈りがささげられる日だった。そしてその時間、ご本尊の波切不動尊の前で、護摩が焚かれるという。

そういえば今年(2026年)の5月、弥山山頂近くにある大聖院の「霊火堂」が火災で全焼したというニュースに心を痛めた方も多かったのではないだろうか。

幸い空海が修業したという1200年以上燃え続けている護摩の「消えずの火」は無事に守られたそうだが(広島市中の平和記念公園の平和の灯も、この火から採られているそうだ)、古くからの祈りの場が姿を変えていくすさまじい場の切り替わりが起こっているような不思議な感覚とともに、それでも決して絶えることのない炎の持つ生命力に引き付けられるように、私はこの日の大聖院に惹きつけられて行った気がする。

いざ、念願の乗船
見えてきました.…大鳥居♡

島に上陸すると、名物の焼き穴子の食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってくる。

最初に鹿のお出迎えを受けた。鹿はびっくりするくらい痩せていたけれど、島の案内板にも書いてある通り、鹿は神様のお使いであると同時に野生動物である。その場限りの観光客の餌やりなどが健康上の問題を引き起こしたり、自力で餌を見つける力を失わせてしまうため、餌やりは固く禁じられている。それにしても出迎えてくれた鹿は背骨が見えるくらい痩せていた。

私がいつものように「フジ子(の写真)との記念撮影」をしようとすると、ふと右側に温かい吐息を感じた。顔を向けると小さな鹿がそばに寄ってきてくれた。

「一緒に写る?」と声をかけてカメラの方を向くと、私の顔をツンと鼻でつついた。それは本当によくフジ子が一緒に写真を撮る時に、いたずらっ子のような顔をしてやる仕草だった。

私は思わず鹿に「フジちゃん…」と声をかけてしまった。反対側でカメラを構えていた夫も「まるでフジ子みたいだね」と言った。

そして改めて私の服を見ながら「今日も、『コギ・カラー』だね」と笑った。

今日も『コギ・カラー』!?

そういえばこのところ、白と少し赤っぽい茶色というコーギー色の組み合わせの服ばかり着ていた。

「そうですとも、フジちゃんのお母さんですから」と自分のチョイスにニヤニヤしながら、私は参道を歩き始めた。

写真を撮るとき、いつもこうして、いたずらっ子のような顔で『鼻ツン』をしてきたフジ子

Geminiのアドバイス通り、まずは山を登り、大聖院に向かった。

真言宗御室派大本山・大聖院は、大同元年(806年)に唐から帰国したばかりの弘法大師空海が宮島に渡り、弥山(みせん)で修禅を開創したことに始まる宮島最古の寺院である。皇室とのゆかりも深く、鳥羽天皇の勅願寺であった歴史を持つ。

そして調べてみて驚いたのだが、勅願堂の波切不動明王と並んで、観音堂に祀られているご本尊は、高僧・行基の手による十一面観音菩薩像である。

フジ子の菩提を弔っていただいた龍神伝説で知られる伊勢の松尾観音寺のご本尊も、同じく行基の手による十一面観音である。何と不思議なご縁だろう。


参道を登る階段には、「マニ車」と呼ばれるカラカラと手で回しながら上がる筒状の仏具が取り付けられている。1つ回転させると般若心経を一巻唱えたのと同じ功徳があるのだという。ここでも般若心経である。このところ、般若心経が繰り返し私の人生の中に現れてくる。

マニ車(大般若経筒)を廻しなから登る石段


実際のところ、私は10代のほとんどをミッションスクールで過ごした。毎朝欠かさず礼拝があり、欠かさず聖書を読み讃美歌を歌い、主の祈りを唱え、がっつり聖書の授業まである、まぁまぁハードコアなミッションスクールだった。

ところが、高校の世界史の授業で、「原始仏教の誕生」というところで、『自灯明法灯明』の教えに接したときの衝撃は今でも覚えている。

仏陀(釈迦)は、原始仏教では極めて端的に言ってしまえば「私は誰も救わない」と断言しているのだ。

「誰も救わないと断言する仏陀が開いた仏教が、なぜ宗教として成立したのですか?」

私は思わず世界史の先生に質問した。
なぜなら、キリスト教はキリストの十字架の贖罪による救済が信仰の大前提であり、他の多くの宗教も「信仰対象による人間の救済」が大前提である。

先生はなぜか嬉しそうにニヤリとして、「あなたは、この学校(ミッションスクール)に来た意味があったようですね。その答えは、ご自身で探されるとよいでしょう。」と謎かけのような言葉を残して授業を終えてしまった。

その口車に乗って私は大学でうっかり哲学を専攻してしまったのだ。しかし入学後、専修選択に際し東洋哲学科の授業に出てみたところで、私はさっそく躓いた。

当時、私の大学は厳格な原典主義で、テキストは全て原語で読むことが義務付けられていた。東洋哲学であれば学部生といえどもサンスクリット語履修が必須で、試しに聴講した授業では、黒板に所狭しとサンスクリット語の文字が踊っていた。

一年後に、これが読めるようになっていなければいけない、だと? 絶対無理である。

私は学務課に出す専修選択の用紙の「東洋哲学」の「東洋」を、こっそり「西洋」に書き換えるしかなかった。

ところが、ここ数年まるで昔の記憶でも思い出すかのように、密教と関わりのあるマントラやお経に出会ったり、ふと口をついて出てくるのである。

最近も、なぜかしきりと脳裏に繰り返し浮かぶマントラがあり(もしかすると何かの動画か、あるいは法会に出たときに耳にしたのかも知れないが)、調べてみるとそれは虚空蔵菩薩真言だった。早口言葉のような少し長いマントラがどうして何度も口をついて出てくるのかは謎なのだが、過去世のどこかで長く唱えていたりしたことがあったのかもしれない。

そしてこれもたぶん偶然ではないのだろうが、参拝して巡った大聖院の小山の奥深くには虚空蔵菩薩様の石像がご真言とともにお祀りされていた。


虚空蔵菩薩像


山の中に広がる大聖院の広大な境内を巡りながら、十一面観音様から始まり、ダライ・ラマ14世が訪れた際に奉納・開眼されたという黄金色の弥勒菩薩像、大師堂、一願大師(願いごとを一つだけ叶えて下さる仏様)、七福神堂と、ひとつひとつのご真言を唱えながらゆっくりと巡っていると、なんだか不思議と懐かしいような気持ちがこみ上げてきて仕方ないのである。

本堂を出るところに、ダライ・ラマ14世ご自身がお加持されたというお札と並んで白檀のブレスレット(お念珠)が頒布されていた。ひとつ買い求め腕につけると、やわらかな胸の奥まで届くような白檀の香りが立ち上ってきた。

それから御朱印帳を預け、境内の様々なお堂をさらに巡った。またこちらは珍しく「鬼」をお祀りしている寺院でもある。鎮座する「三鬼大権現(さんきだいごんげん)」は、福徳・知恵・降魔の徳を備えた大変力の強い鬼神様であり、初代内閣総理大臣・伊藤博文も深く信仰したと伝わる。弘法大師によって弥山に祀られたのが始まりとされる霊神である。

そしてついに、ご本尊・波切不動尊を祀る勅願堂へ上り詰めた。

私がこれほどまでに不動明王に惹かれ、苦しい時に一心にご真言を唱え続けてきたのには理由があった。

不動明王は恐ろしい「憤怒相」をされているが、それは人々が自分の魂から外れて迷う姿を絶対に見放さないという、深い慈悲の裏返しだ。

右手に携える倶利伽羅龍剣は争いで人を傷つけるためのものではなく、人間の迷いや煩悩を断ち切るためのもの。左手の羂索(けんじゃく)は、どんなに頑なで救い難い者であっても、縛ってでも一人残らず引き上げて救うという固い決意の表れだ。

他の仏様のように華やかな衣装を纏うのではなく、まるで奴隷のような半裸の装いで、泥泥とした一番低い場所まで自ら降りていく。頭の上に咲く蓮の花は、その泥の中まで潜って私たちを救い出す覚悟の証だ。そして人がこの世を去った時、十三仏の中で一番最初に迎えに来てくださるのも不動明王様であるとされる。

決して高みから見下ろすことなく、もっとも低き存在となってどこまでも寄り添い救い出そうとしてくださるそのお姿に、一番苦しかった時期の私は救いを求めた。

そして背後に揺らめく大きな迦楼羅炎(かるらえん)は、私たちの迷いやカルマを焼き尽くし、どんな闇からも護り導くという、烈しくも温かい絶対的な救済の光そのものなのだ。

不動明王のマントラは、自分の心に消えない迷いがある時に何度も唱える私にとってのお守りのような言葉なのだ。そのマントラを唱えながら、天井まで壁一面に奉納された何百体もの木彫りの不動明王像に囲まれたお堂の中をぐるりと歩いた。

それから、夫と私はそれぞれ護摩木に願いを書き奉納した。お掃除をされていたお坊さんに尋ねると、「お護摩は6時からで一般の参拝者も見ることができますよ。6時前に戻ってこられたらいいですよ」と教えてくださった。

時間を見るともう3時過ぎである。私たちは御朱印を受け取り、急いで山を下りて厳島神社に向かった。


ついに「厳島神社」参拝

厳島神社は溢れるほどの人だった。神社の中ではご祈祷が行われており、ちょうど私たちが参拝した時に運良く太鼓と祝詞が始まった。神主さんのお祓いもあり、市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)をはじめとする宗像三女神の女神様方に参拝をさせていただき、ついに長年の参拝が叶った。

大鳥居の方を見ると、もう鳥居の向うまで潮が干いていた。

干潮時に露出した砂地を歩いて近づくことができる厳島神社の大鳥居

私は靴を脱いで鳥居に向かって砂浜を歩いてみた。

拝殿からまっすぐ、鳥居に向かって引き潮の流れができていた。その筋を追うように海に向かって歩くと、足元の砂がさらさらと流れ、まるで体に抱えている重いものを海に向かって流してくれているようだった。

そのうち、浜辺に1頭の雄鹿がやってきた。引き潮でむき出しになる貝殻や海藻を食べるためにやってきたのだろう。「野生の動物って賢いんだね」と言いながら、一頭で黙々と餌を探す姿に見とれていた。自然の中で生きるものの気高さと強さは、なんと美しい姿なのだろう。

浜べの鹿の姿、神々しかった


「そろそろ時間だから戻ろうか、大聖院に」

夫の声に我に返った。
こういう時、私は風景に引き込まれると時間を忘れ、いくらでもぼうっとそこに居続けてしまうのだが、夫は真逆だ。「何時にどこどこ」と決めたら絶対にその通りに動く。

今までだったら私はそういう夫の声がけに「つまらない人だなぁ」と思っていたが、この真逆さは、私が糸の切れた凧のようにならないため、そして夫が時計ばかりを見る人生にならないために、お互いにちょうどいい組み合わせだったのだ、と最近ようやく腑に落ちるようになってきた。

夫は変化やスケジュールの変更を嫌う性質で、私は計画や束縛が大嫌い。この相反する性質がお互いを苦しめ合ってきた15年間だったが、苦しみを重ねた後、ようやくその意味が飲み込めてきたのだ。

大学時代の数少ない尊敬する恩師の中に、(立派な先生はたくさんいたのだが、そもそも専攻選択の時点から躓き、どう考えても学問向きでなかった私に深く感銘を与えてくださった先生がそこまで多くなかったというだけの話なのだが)、著作や論文の多さが競われる学者の世界にあって、「本当の偉人というのは本を1冊も書いていないんだよ。イエス・キリストもブッダもソクラテスも本を1冊も書かなかった」とおっしゃっていた先生がいた。川原栄峰先生である。

その先生が生涯で書かれたたった一冊の本『哲学入門以前』は、「自由」についての章から始まっている。

自由と束縛がないことを言う。…(中略)だからここではっきり言っておこう。自由とは束縛がないことを言うのではあるが、しかし、だからといって、それは、したい放題何でもできるということではない。したい放題何でもするというのは自由どころか、欲望の奴隷、衝動の虜になり、内的にすっかり束縛されてしまっていることなのだ。…(中略)外的束縛を脱しただけでは未だに真に自由とは言えないのである。…(中略)決め手になるのはいつでも内的束縛の方なのである。

川原栄峰『哲学入門以前』(南窓社、1967)pp.11-12


「好きなものを食べ、行きたいところに行く。これが自由かというとそうではない。それは欲望の奴隷になっているだけで本当の自由とは言えない

ざっくり言うと、そういう話だ。

四国の真言密教のお寺の御子息であった先生は、西洋哲学(ハイデガーやカント)がご専門だったが、当然、密教や仏教哲学にも大変造詣が深くあられた。カントの授業はすべてドイツ語(結局ここでも原典主義は変わらなかった....)だったから、ロシア文学の授業にばかり潜り込んでいた私は、すでに3年生の時点でクラスメイトの会話についていけなくなっていたのだが、予習が追いつかないまま当てられる恐怖と戦いながらも、川原先生の授業だけは珍しく石にかじりついて一年間出席を通した。

魂の自由とは欲に支配されることではない。その欲に振り回される自分を削ぎ落とした、もともとの自分にたどり着く旅を経ずして、本当の望みなどわかるはずがないのだ。魂の自由は、自分に嘘をつくことをやめ、自分自身に戻ったところからようやくスタートする。

そう考えた時、ここまで真逆の私と夫の役割は、まさにお互いに「無意識のまま従っていた、自分だと思っていたけれど、本当は自分でさえなかったもの、を捨て去るための結婚」だったのだと思えた。

素直に夫の助言に「ありがとう」と言いながら(おそらく私一人だったら、間違いなくせっかくの大聖院の灯籠の時間に間に合わないところだったのだから…)、私たちは大聖院に向かった。


 夜の大聖院の石段に点々と灯された優しい灯籠の明かり

灯籠の火は灯され始めたばかりだった。この山を本日2往復もしているなんて自分たちでも信じられなかったが、信じられないほどの元気さでスタスタと石段を上った。境内に着くと法螺貝の音が聞こえ始め、砂曼荼羅の周りに人々が集まり始めていた。

歩いていたお坊さんにお護摩について尋ねると「あぁ、まもなく始まりますよ。もう行ったらいいですよ」とお堂へ登るよう促してくださった。お堂に入ると、護摩を焚く和尚様はすでに念仏を唱え、数珠を鳴らしながら集中に入っておられた。

私たちが賽銭箱の横の方で小さくなって座っていると、先ほどのメガネのお坊さんが中に入られて「どうぞ、畳に座ってください」と、なんと護摩壇のすぐ下にあった畳に通してくださったのだ。私たちはそこで正座をして、お護摩が始まるのを待った。護摩があることを知らなかったのか、参拝に訪れてお護摩に参加するのは私たち二人だけだった。

境内からは小さなコンサートの歌声がかすかに響いていた。入り口にあった「世界平和」という灯籠の文字を思い出した。

「祈・世界平和」

今日は、9月11日である。世界中の様々な場所で平和に向けての祈りが捧げられたことだろう。そしてその灯籠を見た瞬間、私はふと自分自身に苦笑いしたのだ。「世界平和を祈る前に、じゃあお前ん家はどうなんだ」という話だ、と。

「もう時間だよ、急いで」と夫に言われた時に真っ先にカチンと来ていた自分。でも、この夫のおかげで私は別な「自由」を手に入れ、自分を律して大聖院に向かい、こうして灯籠を見ることができたのだ。

結局、夫とぶつかり合っていた自分も、自分の無明(わけのわからぬ我)を通したり、本当に欲しいものかもわからず望んでいると思い込んでいたものに引っ張られ、「自由を制限された」と思い込んでいただけのことである。その線引きは難しいが、答えは自分の本心を偽らずに玉ねぎの皮を剥くようにどこまでも向き合っていくしかないのだろう。その玉ねぎの皮が、仏教で言うところの「煩悩」というものなのかもしれない。そしてその煩悩を、智慧の炎で焼き尽くしてくれるのがお不動様の背負う『炎(迦楼羅炎)』なのだ。

私たちは通された畳に正座をし、お念珠を手にとった。やがて僧正のご祈祷が始まり、護摩の火が点された。

護摩の炎は、本当に不思議だ。普段の焚き火などでは絶対にあり得ないような、透き通った力強い炎が、まるでお不動様の姿のような形をとり、ものすごい勢いで天に向って立ち上がるのだ。

 護摩壇で勢いよく立ち上る炎(大聖院HPより)

立ち上がる炎と、炎の向こうの波切不動明王様の力強い姿をじっと目に映しながら、私はご真言を一身に唱え続けていた。

人生の中で手を変え品を変え立ち現れてきた苦しみの種。消えない心の傷と思い癖。深い業(カルマ)。そして迷いと煩悩。その一つ一つを、どうかもう焼き尽くしてください、と。
その一心で不動明王様に祈り続けていた。

普段正座をするとものの5分で足が攣る私だが、この時ばかりは体がどんどんどんどん軽くなっていくような、何かに持ち上げられているような不思議な感覚だった。

気がつくと1時間以上が経っていた。横で、トイレを我慢する子供のように始終足をモゾモゾとさせ足の痺れに苦戦していた夫は、「さゆりさんの気迫が怖くて、『そろそろ帰ろうか』とはちょっと言えなかった」と足をさすって笑っていた。

法事の時でさえ最長15分と座れない私なのだから、自分ではない力が助けてくれていたことは間違いない。

「自力」と「恩寵」。

救いの最後の一歩は、きっとこうして向こうからやってくる「恩寵」なのだ。

お護摩に集中されていたお坊さんは、私たちが後ろで参列していたことには気づいていらっしゃらなかったようだった。お護摩を終えて立ち上がり、私たちに気づくと「あぁ、いらっしゃったのですね。ありがとうございました」とおっしゃり、そして「何かお加持をしてほしいものはありますか?」とわざわざ尋ねてくださったのだ。

私は手にかけていた自分の数珠と、今日買い求めた白檀の小さな念珠をお坊さんにお渡しした。お坊さんはまだ残り火が赤々と光る護摩炉の上にかざしながらご真言を唱え、丁寧にお加持をしてくださった。

ご護摩の炎は1000度を超えると言われる。その炎に1時間以上向き合って護摩を焚き上げ続けていたお坊さんのお顔は汗だくであったが、とても清々しかった。

境内ではコンサートも

すっかり全身が軽くなったような心持ちでお堂を後にし、参道の石段を下りた。山門からは、灯籠が灯された美しい石段と、厳島神社を見下ろす瀬戸内海の夜の海が広がっていた。

灯籠の灯る石段と瀬戸内海

いつまでも立って見つめていたい景色だったが、私も少しは学んでいるのである。

「帰りのフェリー、何時だったっけ?」

私が自分から尋ねるまで、珍しく黙って待っていた夫はすぐさま即答した。

「7時45分のフェリーに乗れば、駐車場まで歩きで5~10分。8時半には温泉に着けるから、1時間半はしっかりお風呂に入れるよ」

さすが、細かい…(細か過ぎる…)。その細かさに今日は感謝しながら、私は歩き出した。

夜の海に浮かぶ厳島神社

そして、その夫の細かさのおかげで無事予定通り温泉に到着し、ゆったりとお湯につかって1日を終えることができた。

「違い」は摩擦しか生まないのだと思ってきた。けれど、「違う」者同士こそ、いくらだって幸せに一緒に生きられたはずだった。何なら、それは最高の強みにさえなっていたはずだった。

相手ではなく、全て自分の問題だった。

要は私のわけもわからぬ思い癖のような、自動反応のような我(が)が強すぎたし、相手の我もさらに強かった。お互い見えない架空の相手(虚像)と長い間、自分の恐れや傷を投影しては「空相撲」をとって格闘してきたようなものだった。

戦っていた相手は、相手ではなく、相手というスクリーンに映した、自分の苦しむ姿だった、という嘘のような本当の話だ。

「いいお湯だったよ」

いつものように車に帰ってくると、フジ子号の中ではテーブル上のど真ん中で、菩薩のような穏やかな満面の笑みを浮かべてフジ子が待っていた。

翌日を、瀬戸内海を一望できるキャンプ場で過ごした。

ここも、フジ子と行くはずだった場所である。

尾道市街としまなみ海道に浮かぶ島々

数週間遅れのバースデーディナーは冷凍パスタのレンチンだったけれど、フジ子号の中で食べるものは何だってフルコース以上のディナーなのだ。

窓からは尾道の夜景と瀬戸内海に浮かぶ島々の景色が広がっていた。

遅れた誕生日のお祝い花火

ちょうど食事を食べ終わった頃、ポンポンという音に「何の音?」と窓の外に目をやると、因島のあたりから花火が上がっていた。どうやら来週の「水軍祭り」の予行練習の試し撃ちらしかった。

たった5分で終わってしまったけれど、サプライズのバースデープレゼントみたいだ。

「お前も少しは、賢こうなったか…?」

花火を見ながら、神様のそんな声が、勝手に聞こえた気がしてひとりでクスッと笑った。



山僧 一法の人に与うるなし。
ただこれ病を治し縛を解す。
なんじ諸方の道流、こころみに物に依らずして出て来たれ。
われなんじとともに商量せんことを要す。

『臨済録』


一生にただ一冊の本だけを残した川原栄峰先生。そのたった一冊の本『哲学入門以前』の扉に、何の解説もなく掲げられたこの一文を、今になって気付き改めて読み返した。

現代語にすると、こんな感じである。

「私(山僧=臨済)には、お前たちに教えるような固定した特別な教え(一法)など何もない。ただ、お前たちの迷いという病を治し、執着の縄(縛)をほどいてやるだけだ。修行に励む者たちよ、試しに一切の物や考えにとらわれず、裸の心で私の前に出てきてみなさい。一緒に真理について語り合おうではないか。」


病を治し縛を解す(治病解縛)
禅では、「悟りとは何か特別なものを手に入れること」ではなく、「自分が勝手につくり出した妄想や執着(病・縛)を取り払うこと」だと考えるという。臨済は「何かを教えてやる」のではなく「邪魔なこだわりを外してあげるだけだ」と言う。

物に依らずして(無依の道人)
他人の考え、教典の言葉、権威、あるいは「悟りたい」という欲望など、何ものにも頼ったり執着したりしない自立した心(無依)を持つこと。

商量せん(語り合おう)
一方的な上からの「教え」ではなく、対等な立ち位置で共に哲学の問いを深めたいという臨済の情熱的な呼びかけの言葉だ。

「私には与えるような特別な教え(一法)などない」という臨済の言葉は、「真理とは他者から知識として与えられるものではない」という姿勢そのものであり、釈迦の『自灯明・法灯明』の教えに通じる。

「哲学入門『以前』」というタイトル自体が語り掛けるように、川原先生が学生に示したかったのは「覚えるべき知識」ではなく、そもそもの既存の概念や固定観念(病や縛)から自らを解放し、自分の頭で考え始めるための出発点だったのだろう。

「霊界への探求が、いつも魂の自由へと繋がりますように」
かつて、アンジェラが書き贈ってくれた言葉と、今になって重なった。

「真に偉大な人は本を残さなかった(ソクラテスやブッダのように)んだよ」と茶目っ気たっぷりに語られていた先生が、それでも若い学生のためにと残された一冊。

その扉に何の解説もなくひっそりとこの言葉を掲げたのは、「この本に書いてあることすら絶対視せず、すべての囚われを捨てて、私と一緒に対話をはじめよう」という、学生たちへの最高の招待状だったのだろう。

(それを、この歳になって今更気が付いて読み直しているのだから…やれやれという話だが。)





「いいお誕生日でしたね♡おかあさん」by フジ子


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