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金継ぎ処 さわい 〜割れたものにも物語がある〜 第二話 【創作大賞2026お仕事小説部門応募作】

第二話 ひびの走る午後

 春は漆にとっていい季節だ。

 冬のあいだ室のなかでしか動かなかった漆が、暖かくなるにつれて生き返るように動きだす。
ほどよい湿りとほどよい温みに包まれて、いちばん機嫌よく固まってくれる頃なのだ。

逆に言えば漆には機嫌の悪い日もあって、からからに乾いた晴天の日などは、いつまでも濡れたまま強情に固まろうとしない。むしろ湿った曇りの日のほうがすんなりと身を固める。

 律はその生き物と、もう一度暮らしはじめていた。

 あの時、雨の秋に逃げ帰るようにこの工房へ戻ってきてから、半年が過ぎた。祖母の跡を継ぐと決め、「金継ぎ処 さわい」と彫った木の札を看板に掛けてからひと月。
あの日から、客はぽつりぽつりとやってくるようになった。
割れた小鉢や、欠けた皿や、ひびの入った急須をみな新聞紙やタオルにくるんで、大事そうに抱えてくる。
律はそのひとつひとつを預かり、祖母がそうしていたように手を動かしながら人の話を聞いた。器を直しながら、その器に染みついた人の時間までいっしょに預かった。
最初は重荷だと思っていたその仕事が、いつのまにか律の一日のまんなかになっていた。

 ただひとつだけ、決めていることがあった。
 自分の器は作らない。

 律はかつて蒔絵師だった。漆の上に金や銀の粉を蒔いて絵を描く職人だったが、その筆は十年前に置いた。もう二度と自分の作品は作らず、人の壊れ物を直すだけ——律はそう決めていた。

 文机の隅には、いまもひとつの碗が置かれている。半分だけ黒く塗られて、止まったままの飯碗だ。
底に「りつ」と彫られた、祖母の塗りかけの碗。律が帰ってきたら渡すつもりで、祖母が手の利かなくなった指で最期まで塗っていた碗だった。

 律はまだ、それに手をつけられずにいた。塗りあげてしまえば祖母との時間が本当に終わってしまう気がして、見ないようにして、けれど捨てることもできずに、ただそこに置いていた。毎朝その碗の前を通るたびに、律はほんの少し目を伏せた。

 その朝も史緒は来た。
 高校三年になった史緒は学校の帰りに、ほとんど毎日のように工房へ顔を出す。あの母の形見の茶碗を金継ぎした少女だ。
直しが終わってからも約束どおり——いや、約束以上にここへ通ってきた。

 とはいえ、お茶を飲みに来るのではない。史緒は土間の隅に自分の場所を作っていて、古い座布団を一枚もらってそこに座り、律が研いでいらなくなった練習用の器をこつこつと研いでいる。

 「先生。ここ、まだ段差を感じます」
 研ぎかけの皿を指でなぞりながら、史緒が言う。
 「うん、気づいたね。じゃあ、もう少し」
 律はそれだけ言って、自分の手元に目を戻した。

 史緒はまだ律の弟子ではなかった。冬の終わりに、史緒はまっすぐ言ったのだ。わたしにも金継ぎを教えてほしい、と。
割れたものがいちばんきれいになるあの瞬間を、いつか自分も誰かに届けられるようになりたい、と。

 けれど律は、答えられなかった。

 すぐにはと言ってはぐらかし、漆はかぶれる、儲からない、時間がかかると、もっともらしい理由を並べた。
だが本当のところは別にあった。弟子をとるとは、教えるということだ。その自分が人にものを教えられるような人間だとは、律にはどうしても思えなかった。

 十年前、まさにその「弟子」という立場から逃げ出した人間が——祖母に背を向け、漆を捨てて逃げた人間がいったいどの面を下げて人を導けるだろう。自分の割れたものすら、まだ繕えていないというのに。

 だから律は「いいよ」と言わないまま、史緒が通ってくるのを黙って許していた。史緒も催促はせず、ただ毎日来ては黙々と研いで帰っていく。
その背中を見るたびに、律の胸の奥がかすかに痛んだ。待たせているという痛みだった。

 その日の昼下がり、工房の格子戸がおずおずと開いた。立っていたのはひとりの初老の女性だった。

 きちんとした品のいい人だった。背筋が伸びていて、けれどその目の奥には何かずっと迷っているものがある。胸には小さな風呂敷包みを両腕で抱えていた。

 律には見覚えがあった。看板を掛けたあの日、最初に格子戸を開けたのがこの人だったのだ。
あのとき女性は風呂敷包みを抱えたまま、けっきょく中身を見せずに「やっぱりもう少し考えます」と言って帰っていった。
律は引きとめなかった。割れたものを人前で開くのは勇気のいることだと知っていたからだ。

 その人がまた来た。
 「この前はすみませんでしたね。せっかく開けてもろうたのに」
 女性は深く頭を下げた。

 「いいんですよ。どうぞおかけください」
 律は帳場に上げて、祖母の使っていた古い湯呑みで茶を淹れた。
女性はその茶をひと口飲んでほっと息をつくと、膝の上の風呂敷をゆっくりと解きはじめた。指先がわずかに震えていた。

 中から出てきたのは、ふたつの湯呑みだった。

 夫婦湯呑み、というやつだ。同じ形で大小ひと組の藍色の染付。長く使い込まれて、藍の色がしっとりと深くなっている。

 その大ぶりのほうにひびが入っていた。口縁から底のほうへ向かって髪の毛ほどの細い線が一本、すうっと走っている。
割れて二つになっているわけではないが、明かりに透かすとその線は影になってはっきりと見えた。

 「これね、主人のと、わたしのと」
 女性は大ぶりの湯呑みを指でなぞった。

 「大きいほうが主人で、小さいほうがわたし。結婚したときに二人で瀬戸物屋さんで選んだものでね。もう五十年も前のこと」
 五十年。
 律はその藍色の深さの理由を知った。色は年月が染めるのだ。

 「ご主人は」
 律が尋ねると、女性は湯呑みから目を上げずに言った。
 「三年前に亡くなりました」
 工房のなかがしんと静かになった。土間の隅で史緒も研ぎの手を止めていた。

 女性は喜代と名乗った。
 「ずっとしまってあったんです。主人の湯呑みは、もう使う人もないから。でも先月、戸棚を整理してたら奥のほうでこの子がこうなってて」
 ひびのことを喜代さんは「こうなってて」と言った。
割れたとも欠けたとも言わず、まるでその湯呑みがひとりでに病気にでもなったかのように。

 「捨てようと思えば捨てられたんです。もう使わないものだし。でも、どうしてもできなくて。だって、これは主人の——」
 声が途切れた。

 律は急かさずに待った。漆を待つように。やがて喜代さんは絞り出すように言った。
 「直してほしいんです。ただ……どう直したらいいか、わたしにもわからなくて。元通りというのも違う気がして。かといって、捨てることもできなくて」

 律はひびの入った湯呑みを両手で受け取り、明かりにかざした。ひびは底の近くまで届いている。
いまはまだ水を入れても漏れない程度だが、放っておけばいつか本当に二つに割れてしまうだろう。

 「これは、金繕いができます」
 律は言った。

 「割れて離れているわけじゃないから、接ぐ必要はないんです。ひびに沿って、漆を奥の奥まで丁寧に染み込ませて固めて、それからその線の上に金を蒔く。
そうすれば、ひびはもう広がりません。水も漏れない。また使えるようになります」
 「また使える……」
 喜代さんがつぶやいた。
 「ええ。そして、ひびの線が金色の細い一本になる。今は傷に見えるこの線が——景色に変わるんです」

 喜代さんはしばらくその湯呑みを見ていたが、ふと目を伏せて言った。
 「……景色になるんですか。こんなひびでも」
 その問いかたには湯呑みのことだけではない、何か別のものが混じっているように律には聞こえた。
律はすぐには答えず、もう一度ひびを指でなぞった。深い線だった。ひと息に入ったひびではない。
長い時間をかけて、じわじわと底へ向かって伸びていった線だ。器の内側から。

 その日から、律は喜代さんの湯呑みに取りかかった。

 ひびの金繕いは、割れたものを継ぐのとはまた違う繊細な仕事だ。
まず生漆をひびのなかに染み込ませる。細い面相筆の先に漆を含ませ線に沿ってそっと置いていくと、漆は毛細管現象でひびの奥へ奥へと吸い込まれていく。
一度では足りない。乾かしてはまた置き、乾かしてはまた置いて、ひびの底まで漆が満ちるのを待つ。
表面だけ固めても奥が生のままなら、いつかまた口を開けてしまう。
見えない奥のほうこそ時間をかけて満たしていく。急いではいけない。

 律は筆を動かしながら、ときどき手を止めた。文机の隅の祖母の塗りかけの碗に目がいくのだ。底に「りつ」と彫られた、あの碗。

 喜代さんのひびに漆を染み込ませながら、律は思う。わたしもおなじだ。表面では工房を継ぎ、前を向いたつもりでいる。
客の割れ物を預かり、繕い、人の時間を照らしている。
けれどいちばん深いところの——祖母との割れ目には、まだ漆が一滴も届いていない。
表面だけ固めたふりをして、奥は生のままだ。

人の壊れ物にはこうして奥まで漆を入れてやれるのに、自分の壊れ物だけは十年経ってもまだ見ないようにしている。 律は小さく息を吐いて、また喜代さんのひびに筆を戻した。

 喜代さんは湯呑みの様子を見に、週に一度は工房に通ってきた。
 律が手を動かすあいだ、隣で静かに見ている。そうしているうちに、喜代さんは少しずつ自分のことを話すようになった。
器を直す手の横では、人は不思議と口が軽くなる。正面から向き合うと話せないことも、おなじものを見ながらだとふいにこぼれてくるのだ。それも祖母から教わったことだった。

 ご主人は長く銀行に勤めた人だったという。まじめで無口で、家のことは何ひとつしない昔気質の人。喜代さんは五十年、その人を支えて家を守ってきた。
 「いい夫婦だと人には言われました。波風のない、穏やかな家庭だって」
 喜代さんは湯呑みを見つめながら言った。
 「でもね。主人が定年で家にいるようになってから……だんだん、おかしくなったんです」

 毎日、顔を突き合わせる。すると五十年見ないふりをしてきた小さな棘が、いちいち目につくようになった。
新聞をめくる音、お茶をすするときの喉の鳴らしかた、煮物にひとことだけ言う味の文句、テレビのチャンネルの奪い合い。
どれも本当に些細なことだったけれど、その些細なものが一日に何度も積もって、積もっていった。

 「あるとき気づいたんです。わたしたち、もうほとんど口をきいてないって」
 喜代さんの指が湯呑みのひびをなぞった。
 「同じ家にいて、同じ食卓について、それでも何も話さない。朝、『おはよう』も言わなくなって。主人が出かけるときもわたしは台所で背中を向けたまま、『いってらっしゃい』も言わずに」

 ひびはある日急に入ったわけではない。長い時間をかけて、内側からじわじわと伸びていったのだ。
喜代さんたちの五十年がこの藍色を深く染めたように、沈黙の日々が二人のあいだに一本の見えないひびを底のほうまで伸ばしていった。

 「それでね。ある朝、主人がいつものように起きてこなくて。見にいったら——もう冷たくなってて」
 喜代さんは淡々と言った。淡々と言うことでしか言えないことだった。

 「心筋梗塞でした。眠ったまま逝ったんです。苦しまなかった、それだけが救いだとお医者さんは言いました。でもわたしは——」
 喜代さんの目に、涙が盛り上がった。

 「最後の朝もわたし、『おはよう』を言ってなかった。前の晩もつまらないことでけんかして、背中を向けて寝た。
だから主人と交わしたいちばん最後の言葉がなんだったか、思い出せもしないんです。五十年も連れ添って、いちばん最後がそれで」

 喜代さんが言葉を切ると、律は筆を止めたまま動けなくなっていた。喜代さんの話は、そのまま律自身の話でもあったからだ。

 最後の言葉。律もまた祖母と交わした最後のまともな言葉が、あの夜の「おばあちゃんに何がわかるの」だった。
育ててくれた人に、漆を教えてくれた人に、そう言い捨てて背を向け、十年それを取り消せないまま祖母を見送った。
喜代さんの「おはよう」と律の「ごめんなさい」は、おなじ場所にひっかかっている。言えなかったひとことがいちばん深いところでひびになって、何年経っても固まらないまま残っている。

 「……お預かりします」
 律はようやくそれだけを言った。
 「大事に繕います。時間はかかります。ふた月か、それ以上。漆は急がせると、必ず裏切るから」
 「ええ。いくらでも待ちます」

 喜代さんは目元をぬぐって帰っていった。その後ろ姿を見送って、史緒がぽつりと言った。
 「……わたしと逆ですね」
 「逆?」
 律が振り向くと、史緒は研ぎかけの皿を膝に置いたまま考えるように続けた。

 「わたしは母のことを忘れたくなくて、ここに来ました。傷を残してほしくて。割れたことが、なかったことにならないように。
でもあの人は忘れたくて、傷を消したいんですよね。
つらいことを思い出したくないから。……でも、たぶんほんとは逆じゃないのかも。
あの人も、忘れたくないんだと思う。忘れたくないから、捨てられないんでしょう。ただ、思い出すのがこわいだけで」

 律は史緒の横顔を見た。たった半年で、この子はこんなことを言えるようになった。
割れたものとまっすぐ向き合った人間だけが持つ、あのやわらかな目を史緒はもう持っている。

 「史緒さんは強くなったね」
 律が言うと史緒は照れたように笑った。
 「先生のおかげです」

 その笑顔を見ながら律はふと思った。わたしは人の割れたものを直しながら、知らないうちにこの子の何かも繕っているのかもしれない。
なら、人を繕うことはできるのだ。なら、いつかは自分のことも。

 ところが次の週。喜代さんは思いつめた顔でやってきて座るなり言った。
 「やっぱり、わたし……このひび、消してほしいんです」
 「消す?」
 律が顔を上げると喜代さんは一気に言った。

 「金の線が残るんでしょう。そうしたら、この湯呑みを見るたびに思い出してしまう。仲違いしたあの何年かを。冷たかった、わたしたちの最後の日々を。
いい夫婦だった頃の湯呑みに戻してほしいんです。ひびなんてなかった頃に。けんかなんてしなかった頃に」
 喜代さんの声は震えていた。

 律はしばらく黙ってから静かに首を振った。
 「喜代さん。それはできないの」
 「どうして」
 「ひびを消してしまったら——その五十年も、いっしょに消えてしまうから」
 喜代さんが息を呑んだ。

 「このひびは、ご夫婦が五十年この湯呑みを使い続けた証です。仲のいい日も悪い日も、笑った日も背中を向けた日も、ぜんぶこの一本のひびのなかに入っている。
仲違いした日々も、ご夫婦の本当の時間です。なかったことにはできないし、していいものでもない」
 律は湯呑みのひびを指でなぞった。

 「金はいい時間だけを照らすんじゃないの。つらかった時間もすれ違った時間も、ぜんぶひっくるめて照らす。
だって、それがご夫婦の本当の五十年だから。ひびを消すんじゃなくて、ひびごといとおしむ。
傷をなかったことにするんじゃなくて、傷をいちばん美しいところに変える。それが、金繕いです」
 言いながら、律は自分の声が自分の胸にまっすぐ刺さってくるのを感じていた。

 喜代さんは、その日は何も答えずに帰っていった。律の言葉を否定もせず、受け入れもせず、ただ深く考え込んだ顔で。
律はそれでいいと思った。漆とおなじだ。急がせてはいけない。喜代さんのなかで漆がゆっくり染み込んでいくのを待てばいい。

 その晩、律はひとり工房に残った。

 行灯のような作業灯の下で、喜代さんの湯呑みを室から出す。ひびに染み込ませた漆はしっかりと固まりはじめていて、指でなぞるともう引っかからなかった。奥のほうから繕われていく。

 その湯呑みをしばらく見つめてから、律はふと隣の祖母の塗りかけの碗に目を移した。

 ひびごと、いとおしむ。傷をなかったことにするんじゃなくて、いちばん美しいところに変える。——よくも言えたものだ、と律は自分を嗤いたくなった。
喜代さんにはあれほど偉そうに言っておいて、自分はどうだ。祖母との割れ目を十年、見ないようにしてきた。なかったことにしようとして逃げてきた。
この塗りかけの碗にすら、まだ手をつけられずにいる。ひびを抱えて添い遂げろと人には言うのに、自分のひびだけは抱えることも繕うこともできずにいる。

 律はためしに自分の漆刷毛を手に取ってみた。十年ぶりに握ったその筆は、人の器を直すためのもので自分の碗を塗るためではない。
それでも祖母の碗の塗り残された半分へと、そっと近づけてみる。

 手が止まった。心臓が、ひとつ大きく鳴った。
 まだ、だ。まだ塗れない。塗ってしまえば終わってしまう気がして——いや、違う。塗ってしまえば、本当に祖母と向き合わなければならなくなる。あの夜の言葉と、謝れなかった十年と。

 律は筆を置いた。置いた手が、かすかに震えていた。
 決意というのは案外、薄い陶器のようなものだと律は思う。もう二度と自分の器は作らない、祖母の碗には触れないと、固く決めていたつもりだった。
けれど人の壊れ物を繕うたびに、その決意のいちばん深いところに、目に見えない一本の線がじわじわと伸びてきている。喜代さんのひびとおなじように、内側から。

 桜が満開になった頃、喜代さんが工房にやってきた。その顔は前に来たときとはどこか違っていた。憑きものが落ちたような、静かな顔だった。

 「この前の話、ずっと考えてました」
 喜代さんは座るなり言った。
 「ひびを消さないでください。金で照らしてください。あの仲違いした日々も、ふくめて」
 「……いいんですか」
 律が見つめると喜代さんはうなずき、ふと目を細めて語りはじめた。

 「考えてるうちに思い出したことがあるんです。主人が亡くなるひと月ほど前、めずらしく二人で縁側に座ってたことがあって。
何を話すでもなく、ただ庭を見てて。そしたら主人がぽつりと『この茶、うまいな』って」
 喜代さんの目に涙がにじんだ。

 「それだけなんですよ。『この茶、うまいな』。たったそれだけ。でもあのとき主人は、この湯呑みでお茶を飲んでたんです。
このひびの入った湯呑みで。仲違いしてた時期にも、そういう瞬間がちゃんとあったんですね。わたし、つらかったことばっかり覚えてた。背中を向けて寝た夜のことばかり。
でもほんとうはそういう小さなあたたかい瞬間も、この湯呑みは覚えてた。わたしが忘れてただけで」

 喜代さんは湯呑みを両手で包んだ。

 「だから消さないでください。ぜんぶ残しておきたい。いい時間も悪い時間も。『この茶、うまいな』も、背中を向けて寝た夜も。ぜんぶわたしたちの五十年だから」

 律は深くうなずいた。
 「お預かりした甲斐がありました」

 ひびに漆を満たし、固め、研ぎ、その上に弁柄漆で下塗りをしてまた固め、研ぐ。
何度も繰り返すうちに、ひびの線はつるりと器と一続きになった。そして最後の仕上げ。律はその線の上に薄く漆を引き、半乾きを待って金粉を蒔いた。漆が「呼ぶ」その一瞬を、指の背で確かめながら。

 髪の毛ほどの細い線が、すうっと金色に変わっていく。口縁から底へと流れるように走る、一本の金の川。ぎらぎらとはせず、奥から滲むように品よく光る金だった。

 完成した湯呑みを律は喜代さんに渡した。
 喜代さんはそれを見て、長いあいだ言葉を失っていた。
 「……きれい」
 ようやく、それだけ言った。
 「ひびが、こんなに……きれいに」
 涙が頬を伝った。けれど、それはひとすじだけで喜代さんはすぐにぬぐった。泣き崩れたりはしなかった。

 「主人に見せたかった」
 喜代さんは静かに言った。
 「こんなにきれいになったよって。あなたとわたしの五十年、こんなにきれいだったよって。……でも、もう見せられない。それだけは、どうしたって変わらない」

 律はその言葉に胸を突かれた。そうだ。金で照らしても、繕っても、変えられないものはある。
喜代さんはもう二度と、ご主人に「おはよう」を言えない。律ももう二度と、祖母に「ごめんなさい」を言えない。

 金繕いは魔法ではない。割れたものを割れる前に戻すことはできないし、ましてや死んだ人を生き返らせることもできない。
できるのはただ、繕うことだけだ。傷を抱えたまま、その傷をいとおしむこと。痛みごと、なおその器を生きていくこと。

 それでも——と、律は思う。それでも喜代さんの顔は最初に来たときより、ずっとやわらかかった。
涙はひとすじだけで、憑きものは落ちていた。なかったことにはできない。
けれど、抱えたまま前を向くことはできる。その「できること」のために、自分の仕事はあるのだ。

 「きめた」
 喜代さんはご主人の金の線の入った大ぶりのものと、自分の無傷の小ぶりのものとを並べ、ふたつの湯呑みを風呂敷に包みなおしながら言った。

 「わたし、これから主人の湯呑みのほうでお茶を飲もうと思います」
 「ご主人のほうで」
 「ええ。わたしの湯呑みはしまっておいて、主人のを毎日使います。そうしたら毎日、主人のことを思い出すでしょう。いいことも悪いことも。
『この茶、うまいな』も、背中を向けて寝た夜も。忘れないために使うんです。しまい込んだら忘れてしまうから。
思い出すのがこわいからってしまい込んだら——それこそ、ほんとうにいなくなってしまう」

 律はその言葉を史緒の言葉と重ねて聞いていた。忘れないために使う。しまい込まず、暮らしのまんなかで。
史緒もおなじことを言ったのだ。母の茶碗で毎日ごはんを食べる、と。割れたことを忘れないために。
歳も境遇もまるで違う二人がおなじ場所にたどり着いていた。

 器は飾るものではない。使うものだ。割れても、ひびが入っても、繕ってまた使う。
使い続けることがその人を、その時間を、忘れないでいることなのだ。
祖母が六十年、人に返し続けてきた器も、きっとそうやっていまもどこかの家の食卓で使われている。

 「喜代さん。またいつでも来てください。器が割れていなくても。お茶を飲みに」
 喜代さんは目元をぬぐって微笑んだ。

 「ありがとうございます。じゃあ今度は、主人の湯呑みを持ってきますね。ここでお茶をいれてもらおうかしら」
 「ええ、ぜひ」
 ふたつの湯呑みを抱えて立ち上がった喜代さんの背中は、最初に格子戸を開けたときの、あの迷うような背中とはもう違っていた。
といって軽くなったわけでもない。背負うものを降ろしたのではなく、背負ったまままっすぐ立てるようになった——そういう背中だった。

 路地の角まで見送って工房に戻ると、帳場にはまだお茶のいい匂いが残っていた。
なかったことにはできない。けれど、抱えたまま前を向くことはできる。喜代さんに言ったその言葉が、いつまでも律の胸のなかで響いていた。

 その晩、律はひとり文机の前に座った。

 喜代さんの湯呑みはもう手元にない。けれどその隣には、いつものように祖母の塗りかけの碗があった。
底に「りつ」と彫られた半分だけ黒い碗。いつもなら律はその前を目を伏せて通り過ぎる。見ないようにして、けれど捨てられずに、ただ置いておく。それがこの一年の律と碗の距離だった。

 けれどその晩、律は目を伏せなかった。碗を両手に取り、はじめてまっすぐ見た。塗りの止まったその境目を。半分の黒と、半分の木地のあいだの線を。
祖母の手はここで止まったのだ。手が利かなくなって、それでも塗り続けて、ここで力尽きた。律が帰ってきたら渡そうと、その日まで待ちながら。

 律はずっと、この碗を塗りあげてしまえば祖母との時間が終わってしまうと思っていた。けれど、いまは少しだけ違って見えた。
喜代さんは、ご主人の湯呑みを毎日使うと言った。忘れないために、終わらせないために。ならばこの碗を塗りあげることも——終わらせることではないのかもしれない。

 律は自分の漆刷毛に手を伸ばしかけた。指先が筆の柄に触れる。けれど、そこで止まった。

 まだ、だ。まだ、塗れない。喜代さんがひと冬かけて答えを出したように、自分にもまだ足りない時間がある。漆を急がせてはいけない。心もおなじだ。

 律は筆から手を離した。けれど碗は目を伏せずにもう一度見た。それだけでも、去年の自分からひと刷毛ぶん進んだ気がした。
決意の薄い陶器に走ったあの細いひび。それは消えていない。むしろ、ほんの少し底のほうへ伸びていた。喜代さんのひびのように、内側から、静かに。

 翌朝も史緒は来た。
 いつものように土間の隅に座り、いらなくなった器をこつこつと研いでいる。
律はその横顔をしばらく見ていた。筋がいい、と思う。手が素直だ。

それに——この子は割れたものから目を逸らさない。喜代さんのひびを見ても、自分の母の茶碗を見ても、まっすぐ向き合える。
律が一年かけてようやく碗をまっすぐ見られるようになった、その場所に史緒はもう立っている。

 弟子にしてください、と史緒は言った。あの言葉にまだ答えていない。
 「先生」
 研ぎの手を止めて、史緒が顔を上げた。
 「なに」
 「……なんでもないです」

 史緒は少し笑って、また手を動かしはじめた。催促はしない。ただ毎日来て、研いで帰っていく。
律が「いいよ」と言う、その日を待っている。

 もうすぐだ、と律は思った。自分の碗をまっすぐ見られたように。喜代さんがひびごと夫を抱きしめられたように。
自分ももうすぐ、この子に「いいよ」と言える気がする。人を導く資格なんてまだないけれど。
割れたものを抱えたまま、それでも前を向くことならば自分にも教えられるかもしれない。

 工房の窓の外で桜がほころびはじめていた。金沢に、また春が来ていた。漆がいちばん機嫌よく固まる季節。割れたものが、いちばん美しくよみがえる季節。

 律は湯を沸かし、祖母の湯呑みで茶を一杯いれた。そして文机の碗に目を伏せず、もう一度うなずいた。

   (第二話 了)


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