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近道ができたから、その先へ行ってみる――近道の、その先へ|後編

▼前編からのつづき

写真にどっぷりハマった理由を考えていて、ひとつ思い出したことがある。

建築に比べて、成果が出るのが圧倒的に早かった。

建築のそれは長い。

考えて、描いて、打ち合わせをして、また描いて、工事が始まって、現場へ行って。

ようやく建物ができた頃には、一年以上経っていることだって珍しくない。

でも写真は違った。

シャッターを切る。

見る。

「お、ええやん」

もう一枚撮る。

「こっちもええな」

家に帰って現像してみる。

「もうちょっとこうしたら……」

気がつけば、眠たい目をこすりながらベッドの中でも現像している。

楽しい。

むちゃくちゃ楽しい。

ただし、生活リズムはしっかり崩している。

「次はこうしてみよう」がすぐに試せることは、どうやら僕にとってかなり楽しいことらしい。

AIは、いろんな制作を「写真の時間」のように変えるのかもしれない


となると、前編で考えていたことが少し違って見えてくる。

AIによって制作プロセスが短くなると、経験値は減るんじゃないか。

でも写真の経験から考えると、逆のことだってあり得る。

成果が早く出れば、すぐに次を試せる。

「こうしたらどうなる?」

「じゃあ、こっちは?」

「これとこれを組み合わせたら?」

一回の制作から得られる経験は少なくなるかもしれない。

でも、一回が短くなれば試せる回数は増える。

AIは、いろんな制作を「写真のような時間軸」に変えていくのかもしれない。

成果は、終点じゃなくなる

そう考えると、AIが出した成果を「完成品」として受け取る必要もない。

むしろ、次のための素材として扱えばいい。

文章ができた。

「じゃあ、もっと削ったら?」

建築の案ができた。

「模型にしたら?」

「さっき捨てた案と混ぜたら?」

一旦成果が出る。

次はこうしてみよう。

また成果が出る。

じゃあ次は……。

写真を始めた頃に楽しかった、あの感覚だ。

AIによって失われる経験もある一方で、こんなふうに増えていく経験もあるんじゃないだろうか。

「つくる経験」から「試す経験」へ

そこで身につくものは、これまでとは少し違う。

「こっちの方が好きだ」

「これはなんか違う」

「この組み合わせは面白い」

そんな自分自身の反応についての経験。

試すほどに、

「自分が何に反応する人間なのか」

が少しずつ見えてくる。

AIによってプロセスがなくなるのではなく、プロセスの重心が変わる。

昔の遠回りを無理に保存する必要はないのかもしれない。

一度成果に辿り着いた、その先で試行錯誤すればいい。

そこでまた失敗したり、思っていたものと全然違うものができたりする。

そこに、新しい経験がある。

そう考えると、前編で思い浮かべていた大学や専門学校の学生たちや、自分の子どもたちのことも、少し違って見えてくる。

昔と同じプロセスを経験してもらうことより、

何かができたときに、

「できた!」

で終わるんじゃなく、

「じゃあ、次はこうしたらどうなるんやろ?」

と思えること。

その方が、これからは大事なのかもしれない。

僕が教えるべきなのも、完成までの正しい道順ではなくて、できたものを面白がって、その先へ行ってみることなのかもしれない。

もちろん、そんなことを言いながら、学生の課題を見れば「とにかく模型をつくれぇ〜〜」「図面をかけぇ〜」と言っている気もする。

まだ、そのくらいの矛盾はある。

「これで良い」の意味も変わる

ただ、そうなると別の難しさも出てくる。

いつ終わればいいんだろう。

AIは何度でも次を出してくれる。

100案つくっても、101案目を試せる。

そして101案目を見たら、だいたい102案目も気になる。

足るを知れ。

昔の人はいいことを言った。

でも昔の人の目の前には、たぶん「もう10案生成する」というボタンはなかった。

これからの「これで良い」は、

「もうできないから、これで良い」

ではなく、

「まだできる。でも、今はこれにする」

になっていくのかもしれない。

満足することと、探究をやめること

一度できたものを、

「これ、ええな」

とちゃんと味わう。

でも、それで探究まで終わらせる必要はない。

しばらくしたら、また、

「ところで、こうしたらどうなるんやろ」

が始まればいい。

一度満足する。

そして、また試す。

近道ができたから、遠回りを取り戻す。

そうじゃなくて。

近道ができたから、その先へ行ってみる。


……と、ベッドの中で写真を現像しながら考えている。

たぶん、とりあえず寝た方がいい。

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