「あえて遠回りする」って、もう古いのかもしれない――近道のその先へ|前編
最近、ChatGPT-6 Astraを触っていて、ちょっと驚いた。
これまでChatGPTに何かを相談すると、やり方を教えてもらって、それをもとに手を動かすのは自分やった。
でもAstraは、それを自らやってしまう。
やりたいことを伝えると、パソコンを操作して、どんどん作業を進めていく。
すごい。
めちゃくちゃ便利。
うん。
怖いくらい便利。
そしてその間、僕は何をしているかというと、
「次はどんな仕事を任せようか…」
と悶々と考えてる。
AIのおかげで仕事が減らせるはずなのに、AIにやらせたい仕事を考えることに忙しい。
どうやら、僕はそう簡単に暇にはなれないらしい。

成果に辿り着くまでに、何が残っていたんだろう
そんなAIの働きぶりを眺めながら、ふと思った。
AIによって、いろんなものの制作プロセスをぶっ飛ばして成果に辿り着けるようになったとき、プロセスの中で得ていた経験値はどうなるんやろ…って。
建築の仕事をしていると、ひとつの成果が出るまでにはとにかく時間がかかる。
考えて、描いて。
うまくいかなくて、描き直して。
法規を調べたり、納まりを考えたり。
現場へ行ったら、図面の中では気づかなかったことに出会ったりする。
そうやって何ヶ月、ときには何年という時間をかけて、ようやく建物ができる。
できることなら飛ばしたい作業だって、たくさんある。
とはいえ、振り返ってみれば、そういうプロセスの中で身についたものも多かった。
「こうすると、こうなる」
という感覚。
何度も間違えたり、やり直したりするうちに、いつの間にか身体の中に溜まっていたもの。
成果物とは別に、プロセスの途中にはそんな副産物がたくさん落ちてたんやと思う。

AIは、その道を通らなくてもいい
AIが面白いのは、その道を通らなくても成果に辿り着けてしまうことだ。
文章も、画像も、音楽も、プログラムも。
建築だって、これから同じようなことが起きていくと思う。
それ自体は、ありがたい。
僕だって、面倒な作業をし続けたいわけじゃない。
ただ、成果へ辿り着くために必要だった道がなくなったとき、その途中で知らず知らず手に入れていたものは、どこで手に入れるんやろ。
このことを考えていると、大学や専門学校で教えている子たちの顔が浮かぶ。
そして、家に帰れば自分の子どもたちがいる。
今教えている学生たちは、ちょうどAIが当たり前になっていく境目にいる。
自分の子どもたちに至っては、物心がついた頃には「わからないことをAIに聞く」なんて、たぶん特別なことでもなんでもない。
僕が子どもの頃に辞書を引いていたことを、「昔は紙の束から言葉を探してたらしいよ」と話す日が来るのかもしれない。
いや、そんなのはもう既に来てるか。
そんな人たちに、何を学んでもらうのがいいんやろ。
自分が苦労して覚えたことを、
「これは大事だから、君たちも一回苦労しておきなさい」
と、そのまま渡していいんやろか。
ちょっと怪しいですよね。
僕らはAIがない時代を知っている。
だから、
「ここはAIに任せよう」
「ここは自分でやった方がいい気がする」
と、なんとなく比較することができる。
でも、生まれたときからAIが身近にある人はどうなんやろ。
一度は、こんな答えに辿り着いた。
「これからは、あえて遠回りすることが大事なんじゃないか」
AIに任せれば一瞬でできることを、あえて自分でやってみる。
確かに、それもひとつの方法だと思う。
でも、この「あえて」という言葉に引っかかって。
そもそも「あえて遠回りする」という発想自体が、AI以前を知っている人間の感覚じゃないですか。
遠回りした経験があるから、
「あの時間にも意味があった」と言える。
でも、最初から近道がある人にとって、わざわざ遠い道を選ぶ理由はどこにあるんやろ。
僕だって図面を描きながら、
「いま空間認識能力を養っているぞ」
なんて考えたことはない。
ただ、必要だからやっていた。
その結果として、何かが残った。
これからは、その「必要だからやる」がどんどん消えていくんじゃないか。
そんな中、まだ経験したことのない価値を、自分で「あえて選ぶ」のは、かなり難しい。

遠回りを残すことが、本当に答えなんだろうか
それでは結局、僕らが経験してきた学び方を、次の時代にも残そうとしているだけなのかもしれないですよね?
大学で課題をみるときも、家で子どもに何かを教えるときも、
「自分がこうやって覚えたから」
だけを理由にしたくはない。
かといって、AIに全部任せればいいとも思っていない。
正直、まだよくわからない。
ただ、AIがあることを前提に育つ人たちは、僕らとは違う場所で経験を積んでいく可能性がある。
だとしたら考えるべきなのは、
「どの遠回りを残すか」
ではないんじゃないか。
プロセスを飛ばせるようになった先で、人は何を経験するようになるのか。
そこに、まだ僕には見えていない新しい学び方がある気がする。
そんなことを考えていたとき、ふと写真のことを思い出した。
僕が写真にどっぷりハマっていった理由。
そこに、この問いをもう少し先へ進めるヒントがあるような気がしたんです。
――後編へ続く

