英語が上手な人ほど、話さなくなる不思議
皆様、自分の英語の発音を気にしているではないか?
実は、昔、ある海外出身の研究者と話していたとき、彼が少し腹を立てながら、こんなことを言ったことがある。
「論文のイントロダクションを、また直されたんだ。単語も文法も、ものすごく細かく」
彼は英語で教育を受け、海外の大学院でも学んできた人だった。私から見れば、英語はほとんど生活の一部である。少なくとも、英語を外国語として長年勉強してきた私より、はるかに自然に使っていた。
ところが、その彼が、日本人の教授から英語を何度も直されている。
最初に聞いたとき、私は少し不思議な気持ちになった。
もちろん、論文の英語には独特のルールがある。日常会話で自然な表現が、学術論文では適切でないこともある。「英語ができる」ことと「科学論文を書く」ことは、まったく同じではない。教授が直していたのも、単純な英文法ではなく、論理の流れや学術的な表現だったのかもしれない。
だから、どちらが正しい、どちらが間違っている、という話をしたいわけではない。
ただ、その出来事は、私の中に一つの疑問を残した。
私たちは、英語に何を求めているのだろう。
日本で生活している外国人にとって、日本語は当然必要になる。
職場では日本語で会議をする。メールを書く。雑談もする。相手の言葉の裏にあるニュアンスまで理解しなければならないこともある。
ところが研究の世界に入ると、今度は英語が必要になる。
論文は英語。国際学会も英語。海外の研究者との議論も英語。
日本語を勉強しながら、英語も勉強する。
ときどき私は、自分の頭の中に二つの語学学校が同居しているような気がする。
しかも、どちらも卒業証書をくれない。
そんな私が、以前ヨーロッパに滞在したとき、少し驚いたことがあった。
みんな、英語をものすごい勢いで話すのである。
最初は圧倒された。
「やっぱりヨーロッパの人は英語が上手だなあ」
そう思って聞いていた。
ところが、慣れてきて一つ一つの文章をよく聞いてみると、意外なことに気づいた。
文法は結構間違っている。
冠詞がなくなったり、時制が少し変だったり、母語のアクセントもかなり強かったりする。
それでも、誰も止まらない。
間違えた本人も止まらないし、聞いている人も止めない。
「今の三人称単数、sが抜けましたよ」
などと言う人は、もちろんいない。
フランス語の匂いがする英語、ドイツ語の匂いがする英語、イタリア語のリズムが残った英語。いろいろな英語が同じテーブルの上を飛び交っている。
それなのに、議論はちゃんと成立している。
研究のアイデアについて笑ったり、反論したり、「それは面白い」と言ったりする。
そこで私は、少し拍子抜けした。
ああ、英語って、これでいいのか。
考えてみれば当たり前である。
言葉は、本来コミュニケーションのために生まれた。
自分が何を考えているのか。
相手が何を言おうとしているのか。
それが伝われば、言葉はすでに大切な仕事を果たしている。
ところが、外国語として英語を長く勉強していると、ときどき目的と手段が逆転する。
「正しい英語を話さなければならない」
「発音がきれいでなければ恥ずかしい」
「ネイティブのように速く話せる人は英語が上手だ」
いつの間にか、英語がコミュニケーションの道具ではなく、その人の能力を測る試験のようになってしまう。
特に厄介なのは、速く話せることと、深く考えられることが、無意識のうちに結びついてしまうことだ。
英語を流暢に、しかも速く話す人を見ると、
「この人は仕事ができそうだ」
「頭が良さそうだ」
「内容もよく理解しているのだろう」
と感じてしまうことがある。
でも、本当にそうだろうか。
話す速度は、思考の深さではない。
きれいな発音は、研究能力の証明でもない。
反対に、言葉を探しながらゆっくり話す人が、頭の中では非常に複雑なことを考えている場合もある。
母語なら一秒で言えることを、外国語では十秒かけて組み立てているだけかもしれない。
その十秒を見て、「この人は分かっていない」と判断したら、私たちはその人の能力ではなく、単に英語の処理速度を評価していることになる。
これは、英語だけの問題でもないのだと思う。
世界には、中国語、アラビア語、日本語をはじめ、長い歴史を持つ言語がたくさんある。人類は英語が世界共通語になるはるか以前から、哲学を語り、科学を考え、詩を書き、社会を作ってきた。
英語が現在の国際社会で非常に便利な共通語であることは間違いない。
研究者であるなら、英語を学ぶ価値は大きい。私自身も、もっと英語を話せるようになりたいと思っている。
でも、だからといって、英語を話す能力そのものを、その人の知性や価値と混同する必要はない。
むしろ英語を「特別な能力」から「便利な道具」に下ろしてしまったほうが、私たちはもっと自由に話せるのではないだろうか。
間違えてもいい。
アクセントがあってもいい。
少しゆっくりでもいい。
「Yesterday I go……あ、went!」
でもいい。
相手が、
「ああ、昨日行ったんだね」
と分かれば、会話はもう前に進んでいる。
もちろん、論文を書くなら正確さは必要だ。重要な交渉なら、誤解を生まない表現も必要になる。場面によって求められる英語の精度は違う。
でも、普段のコミュニケーションまで毎回「満点の英語」を目指していたら、口を開く前に疲れてしまう。
最近、私は英語を勉強するとき、自分にこう言い聞かせるようになった。
ネイティブになる必要はない。
私は英語圏で生まれ育った人ではないのだから、そもそもそこを目標にする必要もない。
自分の研究を説明できる。
自分の意見を言える。
相手の話を聞いて、「それは違うと思う」と言える。
冗談を一つ言って、一緒に笑える。
そこまでできたら、英語は十分に私の道具になっている。
外国語を話すとき、間違いを一つもしないことを100点とするなら、私はたぶん一生100点を取れない。
でも、間違いながらでも目の前の人と話が通じたら——私はそちらを100点にしたい。
もしかすると、外国語を本当に使えるようになる瞬間とは、「間違えなくなった日」ではなく、「間違えることを怖がらなくなった日」なのかもしれない。
英語は、試験なのだろうか。
それとも、世界の誰かと話すために、たまたま今、多くの人が共有している道具なのだろうか。
そう考えると、次に英語で言葉が詰まったときも、少し気楽に口を開ける気がする。
文法を一つ間違えたくらいで、世界は止まらない。
たぶん相手は、こちらが思っているほど気にしていない。
そして何より——言葉は、正しさを見せるためではなく、誰かに何かを伝えるためにある。
最近の私は、もう開き直っています。
アクセントは仕方がない。間違えることもある。それより、自分が何を考えているのかを、自分の言葉でちゃんと伝えられることのほうが大切だと思うようになりました。
noteを書くときも、最近は「完璧な日本語」より「自分らしい文章」を大事にしています。英語も同じでいいのかもしれません。
とはいえ、これは私の都合のいい開き直りでしょうか(笑)。
皆さんは、外国語を話していて「間違えるのが怖くて口が止まった」経験はありますか。
逆に、文法はめちゃくちゃだったけれど、なぜかちゃんと通じた——そんな経験はありませんか。
そして皆さんにとって、「英語が上手な人」とは、発音がきれいな人でしょうか。文法を間違えない人でしょうか。それとも、自分の考えを相手に伝えられる人でしょうか。
ちょっと皆さんの経験を聞いてみたいです。
