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日本人夫は虫が好きらしい

私は中国出身で、夫は日本で育った。

国際結婚というと、もっと華やかなものを想像されることがある。
言葉の違い、文化の違い、食卓の違い、親戚付き合いの違い。
もちろん、それもある。

ただ我が家で一番分かりやすい違いは、私が話したい時に、夫が本を読んでいることである。

夫は、家に帰ってきても本を読んでいる。

仕事の本かと思えば、虫の本である。しかも、子ども向けの昆虫図鑑ではない。虫社から出ている、虫好きの中でもさらに奥の部屋にいる人たちが読むような、たいへん専門的な雑誌である。たぶん世の中の大半の人は、その雑誌の存在を知らないまま人生を終える。

いや、仕事の本を読んでいることもある。SFのこともある。小説のこともある。とにかく何かしら読んでいる。夫にとってソファーとは、くつろぐ場所というより、身体を横にして読書を継続するための装置なのかもしれない。

若い頃には、一人でバックパックを背負って、一か月ほどマレーシアを旅したことがあるらしい。

ふつう、若者がマレーシアに一か月行くと聞けば、南国の海、屋台、異文化交流、少し危険な恋、くらいを想像する。

しかし内の夫の場合、目的はおそらく、リゾートでも青春でも恋でもなく、虫である。しかも、現地のマレー人のご家庭に一か月も滞在させてもらったという。海辺でロマンスを育てるどころか、熱帯雨林と虫と人の暮らしの中に、静かに沈没していたらしい。

青春のページに、セミの羽音が挟まっている男。
それが、私の夫である。

夫は無口で、優しい。

ただし、無口で優しい人と暮らすことが、いつも楽しいとは限らない。
無口は無口である。
こちらが「今日こんなことがあってね」と話しても、返ってくるのは「ふーん」か「そうなんだ」か、たまに「それは定義による」みたいな、会話の火を消すために開発されたような返事である。私の話は、夫の耳に届く前に、どこかの査読委員会に回されているのかもしれない。

優しい。
それは間違いない。
しかし、優しい人が必ずしも気の利いた相槌を打てるとは限らない。
結婚生活とは、そういう残酷な真実を、味噌汁くらいの温度で少しずつ飲み込んでいく場でもある。

私はこれまで何度か、いや、かなり何度も、心の中で「結婚生活・中間評価会議」を開いてきた。

議題はいつも同じである。

この人と結婚した判断は、果たして妥当だったのか。

夫は仕事が好きである。
かなり好きである。
平日は仕事に深く沈み、家にいる時間も、本を読んでいることが多い。実家に帰っても、親戚とにぎやかに語り合うより、いつの間にかソファーに沈み、本を開いている。

性格というものは、どうも変更不可の初期設定らしい。
スマホならアップデートがある。アプリなら削除して入れ直せる。
しかし夫の「帰宅後、本を読む」という設定は、結婚以来ずっと固定である。通信環境が変わっても、場所が変わっても、子どもが騒いでも、だいたい本を読んでいる。

この安定性を、私は時々うらやましく思う。
そして時々、腹も立つ。

夫は理屈っぽい。
研究を仕事にしているからなのか、もともとの性格なのか、何でも筋を通したがる。

私が「まあ、いいじゃん」と言うと、夫は「いや、そこは整理しないと」と言う。
私が「気持ちの問題だよ」と言うと、夫は「でも事実関係としては」と返してくる。

結婚生活において、毎回事実関係を確認されると、こちらはだんだん火鍋の底に沈んだ唐辛子のような気持ちになる。
見た目は静かだが、触ると危険である。

しかも夫には、優しさの中に小さな昭和が住んでいる。
話は聞いてくれる。聞いてくれるが、聞いたうえで、自分の中にある見えない会議室で採決を取り、すでに結論を出していることがある。

私は中国出身で、自己主張についてはそれなりに訓練されてきた人間である。
夫は日本で育ち、沈黙を一種の言語として使う人間である。

この二人が結婚すると、家庭内では時々、国際会議のような空気が流れる。
ただし通訳はいない。
しかも議題はだいたい、子どもの進路、夕飯、洗濯物、冷蔵庫の中の何かである。

それでも、夫には大きな長所がある。

中華料理をよく食べる。

これは中国人妻にとって、かなり重要である。
愛情表現にはいろいろある。花を買う、言葉で褒める、記念日を覚えている、皿を洗う。もちろんそれらも大事だ。

しかし、火鍋を嫌がらない夫。
羊肉をうれしそうに食べる夫。
花椒で舌が少ししびれても、「おいしい」と言う夫。

これは、かなり上位の愛情表現ではないかと私は思っている。

国際結婚において、食卓は最前線である。
ここで敗北すると、日々が地味につらい。

「辛いのはちょっと……」
「羊肉は匂いが……」
「八角は苦手で……」

などと言われ続けたら、こちらの魂の一部が干からびる。中国人としての根っこが、冷蔵庫の奥で忘れられた香菜のように、しなしなになってしまう。

その点、夫はありがたい。
火鍋も食べる。羊肉も食べる。本格中華も食べる。
しかも、ただ食べるだけではない。ある時から、自分で本格的な中華料理を作りたいと言い出した。

そして本を買ってきた。

夫は、何かを始める時、まず本を買う。
このあたりが非常に夫らしい。研究者ならではの習慣なのだろう。

料理であっても、いきなり鍋を振るのではない。まず理論である。まず文献である。まず先行研究である。

料理本を読む夫の姿は、ほとんど論文を読む研究者である。
材料を確認し、工程を理解し、加熱時間を検討し、辛味の再現性を追求する。
週末の台所で、夫は料理をしているというより、実験をしている。

「この油の温度が大事なんだと思う」
「ここで香りを出すらしい」
「このレシピだと、たぶん唐辛子の量が少ない」

私は横で見ながら思う。
なぜその情熱を、もう少し日常会話にも応用できないのか。

しかし、悔しいことに、美味しい。
本当に美味しい。

辛い料理をちゃんと辛く、香りのある料理をちゃんと香り高く作る。
私が感覚で「このくらいかな」と入れるところを、夫は根拠を探す。
私が「まあ大丈夫」と済ませるところを、夫は再現性を気にする。

その理屈っぽさに腹が立つ日もある。
だが、その理屈っぽさで作られた麻婆豆腐が美味しい時、私は少しだけ黙る。
人間、味覚の前では思想が揺らぐ。

夫は虫が好きで、自然にも詳しい。

子どもたちが小さかった頃、一緒に散歩に出ると、夫は急に生き生きした。
道端の草の名前、木の名前、虫の名前。
私には全部「雑草」と「虫」で済んでいた世界に、夫は一つ一つ名前をつけていった。

「これは〇〇」
「これは〇〇の幼虫」
「この花、匂いをかいでごらん」

私なら「早く歩きなさい」と言う場面で、夫は立ち止まらせる。
私なら「触らないで、汚い」と言いそうなところで、夫は「よく見てごらん」と言う。

正直、これはいいなあと今でも思う。

子どもにとって、世界は最初から広いわけではない。
大人が名前を教え、匂いをかがせ、立ち止まる時間を与えることで、少しずつ広くなる。

夫は無口だが、自然の前では少し饒舌になる。
虫や植物を通してなら、子どもに世界の面白さを伝えられる人なのだ。

私はその姿を見るたびに、この人と結婚してよかったのかもしれない、と少し思った。

うちには本が多い。多すぎる。

本棚に入りきらず、床にも積まれている。
私の本、夫の本、子どもの本、いつか読むつもりの本、買ったことを忘れてもう一度買った本。
この家では、本が植物のように増殖している。水も肥料も与えていないのに、なぜか増える。しかも、捨てられない。

夫はSFが好きで、最近は珍しく私にまで本をすすめてくる。
今は一穂ミチにはまっているらしい。

無口な夫が本をすすめてくる時、それはかなり珍しい現象である。
珍鳥を見たくらいの気持ちで、私は一応耳を傾けた。

ところが、軽い気持ちで読んでみたら、私まで一穂ミチの沼に足を取られてしまった。
夫のおすすめなど、せいぜい虫の図鑑かSFの宇宙船くらいだろうと油断していたのが敗因である。

思えば、三浦しをんもそうだった。夫が読んでいた本を何気なく拾って読んでみたら、気づけば私のほうがどっぷりはまっていた。

どうやら夫は、普段あまりしゃべらない代わりに、本棚経由で私の人生にじわじわ侵入してくるタイプの人間らしい。
直接すすめられると少し警戒するが、床に置かれた本は危ない。無言の罠である。

私は歴史や社会に関する小説が好きだ。
人間の運命とか、国とか、階層とか、教育とか、そういう少し重たいものにどうしても引き寄せられる。

夫はSFや虫や自然へ行く。
私は歴史や社会や人間のどろどろへ行く。

同じ家に住んでいるのに、頭の中の森が違う。

それでも、たまに同じ本を買ってしまう。
本棚や床に積まれた本の山から、同じタイトルが二冊出てくる。

お金の無駄遣いである。
非常に無駄である。
しかし、まったく違う方向を向いているようで、どこかで同じ本にたどり着く。
そう思うと、少しだけ面白い。

夫婦とは、同じ本棚を持つことではないのかもしれない。
同じものを好きになることでもないのかもしれない。

虫の本を読む人と、歴史小説を読む人が、同じリビングでそれぞれ勝手にページをめくっている。
時々、同じ本を二冊買ってしまう。
時々、火鍋を囲む。
時々、子どもに花の匂いをかがせる。

それくらいで、案外、生活は続いていく。

夫は今日もたぶん、どこかで仕事をしている。
帰ってきたら、また本を読むだろう。仕事の本か、SFか、虫の本か。

マレーシアで一度、「ヒルを見せて」と言ったことがある。

夫はさっそく手の中に入れて、「はい」と差し出してきた。

グニャグニャと動くそれを見た瞬間、私は「ギャッ」と叫んで逃げた。

すると夫に怒られた。

「あなたが見たいと言ったでしょう」

それは、たしかにそうである。

しかし、瓶に入れるとか、少し離れたところから見せるとか、そういう発想は一切ないらしい。

見たいと言ったら、手の中で直接見せる。

夫にとって、虫とは観察対象であり、恐怖対象ではないのだ。

純粋といえば、純粋である。

ただ、こちらの心臓には、もう少し配慮してほしい。

この人と結婚して失敗だったのか、成功だったのか。
いまだによくわからない。

ただ、週末に夫が辛い中華料理を作り、私が「これ、けっこう美味しいね」と言い、夫が少しだけ得意そうな顔をする時、私は思う。

まあ、少なくとも、完全な失敗ではなかった。

ソファーで本を読む人。
虫とSFと中華料理の本を抱えた人。
我が家の国際結婚は、今日もだいたいそのあたりで成立している。

夫と暮らして、私は少しだけ、世界に名前があることを知った。
ただの虫、ただの草、ただの本、ただの夕飯。
それぞれに、誰かの偏愛や時間がくっついている。

ただし、それを教えてくれた本人は、今日もソファーで本を読んでいる。
私が何か話しかけても、返事はたぶん「ふーん」である。

夫婦とは不思議なものである。
文化差なのか、個人差なのか、愛なのか、あきらめなのか。
いまだに判定はつかない。

でも、週末に辛い中華料理が出てきて、同じ本を二冊買ってしまって、子どもが昔かいだ花の匂いをふと思い出すなら、まあ、今日のところは継続でいいかと思う。

みなさんの結婚生活は、何によって成立していますか。
美味しいごはんでしょうか。沈黙でしょうか。あきらめでしょうか。それとも、たまに出てくる謎の優しさでしょうか。

特に国際結婚の方は、家の中にどんな小さな「国境」がありますか。
よかったら、こっそり教えてください。

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