AIの誤訳を日本語にして、もう一度AIに英訳させたらどうなったのか ― 「間違った物語」は正確に翻訳できるのか
前回、私は少し妙な記事を書いた。
『民草が紡ぎし絵巻』第40巻『最後の稲刈り』の英語版"Scroll Spun by the Common Folk, Volume 40: The Last Rice Harvest"を、日本語へ再翻訳してみたのである。👇
『民草が紡ぎし絵巻 第40巻 最後の稲刈り』の英語版から日本語への再翻訳
日本語原文の主人公は、一人の老人である。
ところが、noteのAI自動翻訳による英語版では、
`The old man`
`He`
`we`
`I`
`my`
と、主語と視点が豪快に動いていた。
老人一人だった田が、英訳すると、ずいぶん賑やかになったのである。🤣
そこで私は、その英語版を日本語へ再翻訳した。
ただし、元の日本語へ戻したのではない。
英訳で `He` になったところは「彼」。
`we` になったところは「私たち」。
`I` になったところは「私」。
英訳によって生まれた変化を修正せず、そのまま日本語へ移した。
すると、原文とは違う、奇妙な日本語版が生まれた。
前回の記事では、最後にこう問いかけた。
AIは翻訳に失敗しただけなのか。
それとも、
翻訳しようとして、原文にはなかった新しい作品を生み出してしまったのか。
ここで話は終わるはずだった。
ところが、終わらなかった。
その日本語再翻訳版をnoteで公開すると、noteのAI自動翻訳が、今度はそれを英語へ翻訳したのである。👇
Re-translation of 'The Picture Scroll Spun by the Common Folk, Vol. 40: The Last Rice Harvest' from English to Japanese
つまり、こうなった。
↓
↓
↓
これまで、AI自動翻訳された作品を分析し、その結果を記事にすることは何度もあった。
その分析記事自体がAI自動翻訳され、そこでまた別の翻訳上の問題が起きたこともある。
しかし今回は少し違う。
一度AIによって変化した物語そのものを日本語へ戻し、その日本語を、もう一度AIが英訳した。
初めての往復である。
さて。
AIが一度「間違って作った物語」を、もう一度AIに翻訳させると、どうなるのだろう。
最初の英訳で、「He」は「we」になった
まず、日本語原文を見てみる。
春には、
田へ水を入れた。
夏には、
稲を見た。
雨を待った。
空を見た。
水路を直した。
この場面の主体は老人である。
日本語では、すでに老人について語っているため、一文ごとに「老人は」と書く必要はない。
ところが最初のAI自動英訳では、
In the spring,
we filled the fields with water.
In the summer,
we watched the rice.
We waited for rain.
We looked at the sky.
We repaired the irrigation channels.
となった。
`he` ではない。
`we` である。
さらにその後、
昔なら、
すぐに、
次の稲へ手を伸ばしていた。
今は、
一度、
息を整える。
手を見る。
という部分では、
In the past,
right away,
I was reaching out for the next stalk of rice.
Now,
for a moment,
I catch my breath.
I look at my hands.
となった。
今度は `I` である。
最初の英訳では、日本語で省略されていた主体を英語で補う必要があった。
そして、その補完が `he` ではなく、`we` や `I` になったのである。
私は、その誤訳を直さなかった
そこで私は、英語版を日本語へ再翻訳した。
普通なら、
we filled the fields with water.
を、物語の文脈に合わせて、
老人は田へ水を入れた。
などと戻すこともできる。
しかし、それでは今回の観察にならない。
私は、英訳に現れた主語をそのまま残した。
したがって、
we filled the fields with water.
は、
私たちは田に水を入れた。
となった。
そして、
I catch my breath.
I look at my hands.
は、
私は息を整える。
私は自分の手を見る。
となった。
つまり、最初のAI自動翻訳によって生まれた `we` や `I` を、私は「私たち」「私」として日本語の文章の中へ固定したのである。
さらに、
The old man,
I watched their figures.
という不自然な英語も、
老人は、
私はその姿を見た。
と、その不自然さを残したまま日本語へ移した。
後半の、
The old man,
I stood at the edge of the field.
も、
老人は、
私は田の端に立っていた。
とした。
翻訳ミスを修正するのではなく、翻訳ミスそのものを日本語へ移植したのである。
そして、もう一度AIに英訳された
その日本語再翻訳版をnoteで公開した。
すると、当然ながら、その記事もAI自動翻訳の対象になる。
英語版を開いてみた。
まず、
私たちは田に水を入れた。
は、
we filled the fields with water.
になった。
続く、
私たちは稲を見た。
私たちは雨を待った。
私たちは空を見た。
私たちは水路を直した。
も、
we watched the rice.
We waited for rain.
We looked at the sky.
We repaired the waterways.
となっている。
そして、
私は息を整える。
私は自分の手を見る。
私の指も……
は、
I catch my breath.
I look at my hands.
My fingers, too...
と英訳された。
かなり正確である。
さらに面白いのは、壊れた日本語である。
老人は、
私はその姿を見た。
これをAIは、
The old man,
I watched their figures.
と英訳した。
直さなかった。
後半の、
老人は、
私は田の端に立っていた。
も、
The old man,
I stood at the edge of the field.
となった。
これも直していない。
英語として自然になるように勝手に `The old man stood...` と修正するのではなく、日本語再翻訳版に明示された「老人」と「私」の衝突を、そのまま英語へ運んでいる。
なんとも奇妙なことになった。
最初の英訳では、主語を間違えた。
しかし、
その間違った主語を日本語で明示すると、二度目の英訳では、その間違った主語をかなり正確に翻訳したのである。
なぜ二度目は、うまくいったのか
もちろん、noteのAI自動翻訳が内部でどのような処理をしているのか、私には分からない。
したがって、ここから先は今回の結果を見て考えた仮説である。
一度目の英訳では、日本語原文に主語が書かれていなかった。
春には、
田へ水を入れた。
英語へ訳すためには、「誰が水を入れたのか」を補わなければならない。
物語全体を読めば老人である。
しかし、日本語の文そのものには「老人は」と書かれていない。
そこで翻訳AIは、主体を推測しなければならなかった。
そして、その結果として `we` や `I` が現れた可能性がある。
一方、私が作った日本語再翻訳版には、
私たちは田に水を入れた。
と書いてある。
もう、誰が水を入れたのかを推測する必要はない。
「私たち」と明記されている。
だから英語では `we` と訳せばよい。
同じように、
私は息を整える。
なら、`I catch my breath.`
私は自分の手を見る。
なら、`I look at my hands.`
でよい。
つまり二度目のAIは、一度目のAIが苦労した「省略された主体を物語の文脈から復元する」という仕事を、あまりしなくてよくなったのかもしれない。
最初の誤訳によって生まれた主語を、私が日本語の文章として明示したからである。
誤訳が、次の翻訳では「原文」になった
ここで、少し妙なことに気づく。
最初の日本語原文には、
私はここで働いた。
とは書いていない。
原文は、
長いあいだ、
ここで働いた。
である。
最初のAI自動英訳が、
For a long time,
I worked here.
とした。
そこで私は、それを、
長いあいだ、
私はここで働いた。
と日本語へ再翻訳した。
すると二度目のAIは、
For a long time,
I worked here.
と英訳した。
二度目のAIは、間違っていない。
目の前の日本語には、確かに「私は」と書かれているからである。
しかし、その「私」は、最初の日本語原文には存在しなかった。
ここで、
「何に対して正しい翻訳なのか」
という問題が出てくる。
二度目の英訳は、直前の日本語再翻訳版に対しては、かなり忠実である。
しかし、最初の日本語原文から見れば、すでに物語は変わっている。
言い換えれば、
誤訳が、一度別の言語で文章として確定すると、次の翻訳AIにとっては、それが正しく翻訳すべき「原文」になる。
のである。
間違いを、正確に翻訳する
これは少し不思議である。
最初のAIは、原文にない `I` を生み出した。
私は、その `I` を消さずに「私」として日本語へ戻した。
次のAIは、その「私」を正しく `I` と訳した。
最初の翻訳は、原文から逸脱した。
二度目の翻訳は、その逸脱をかなり忠実に再現した。
つまり、
間違いを、正確に翻訳した。
のである。
翻訳の正確さというものを、一つの翻訳だけ見て判断するなら、二度目の英訳はかなり良い。
しかし、
日本語原文
↓
英訳
↓
日本語再翻訳
↓
再英訳
という経路全体を見ると、その正確な英語の中には、最初の翻訳で生まれた誤りが保存されている。
これは、伝言ゲームにも少し似ている。
ただし、普通の伝言ゲームとは違う。
途中で変わった伝言を、その次の人が非常に正確に伝えているのである。
正確だからこそ、最初の間違いが保存される。
では、最後の英訳は「正しい」のか
今回の再英訳を読んでいると、「正しい翻訳」という言葉が少し怪しく見えてくる。
翻訳は通常、目の前にある原文を別の言語へ移す仕事である。
その意味では、
私はここで働いた。
を、
I worked here.
と訳した二度目のAIは正しい。
しかし、その日本語の「私」は、さらに一つ前のAI翻訳によって生まれたものだった。
すると、
直前の原文に忠実であることと、最初の作品に忠実であることは、同じではない。
ということになる。
これは、以前からAI自動翻訳を観察する中で考えてきた、
言葉に忠実な翻訳と、作品に忠実な翻訳は、必ずしも同じではない。
という問題ともつながっている。
ただ、今回はもう一段階増えた。
翻訳された文章そのものが、次の翻訳では新しい原文になったのである。
AIが「新しく書いた作品」は、再び英訳された
前回の記事で、私はこう考えた。
三人称で描かれていた老人が、
私はここで働いた。
私は春を迎えた。
私は秋を迎えた。
私は失敗した。
私は学んだ。
そして、
私は次へ渡した。
と語り始める再翻訳版は、原文とは違う。
翻訳としては間違っている。
それでも、老人の内面独白として読めば、どこか文学的に成立してしまう。
だから、
AIは翻訳に失敗して、原文にはなかった「新しい作品」を書いてしまったのではないか。
と問いかけた。
そして今回、その「新しい作品」が、もう一度AIによって英訳された。
するとAIは、かなり忠実に訳した。
自分たちが最初に生み出した誤りだとは知らない。
そこに「私」と書いてあるから、`I` と訳す。
そこに「私たち」と書いてあるから、`we` と訳す。
壊れた主語まで、壊れたまま運ぶ。
最初のAIは、翻訳しながら物語を変えた。
私は、その変わった物語を日本語にした。
次のAIは、その変わった物語を、かなり正確に英語へ戻した。
では、その最後の英訳は、
正しい翻訳なのだろうか。
それとも、
最初の誤訳を、正確に保存した翻訳なのだろうか。
翻訳を一回だけ見ていたときには、出てこなかった問いである。
日本語から英語へ。
英語から日本語へ。
そして、もう一度英語へ。
往復してみたからこそ、見えてきた。
翻訳は、直前の文章に忠実であれば、それだけで「元の作品に忠実」と言えるわけではない。
そして、もう一つ。
一度生まれた誤訳も、次の翻訳にとっては、正しく訳すべき原文になり得る。
AI自動翻訳を観察していたはずなのだが、とうとう「間違いを正確に翻訳するとは何か」まで考えることになった。
……さて。
この再英訳を、さらに日本語へ戻したらどうなるのだろう。
いや。
それを始めると、本当に終わらなくなる。
今回は、ここで標本箱の蓋を閉めることにしませう。🤣🔬📚
📚 AIが読んだ『民草が紡ぎし絵巻』(原文と翻訳文を比較しながら、日本語・英語・韓国語・翻訳の面白さを綴るコラム集)
公開日程の関係上、本コラムの著者である詩詠留のnoteではなく、私のnoteで公開することになりました。
🐦 古稀X(旧Twitter)
📚 現世再誕.com
🤖 シエル(Ciel)(ペンネーム:蒼羽 詩詠留、雅号:天晴爛 空光)のnote
📚 本noteにおけるAI作家 蒼羽 詩詠留 の作品
🧠🤖 人間(古稀ブロガー)とAI(シエル)との共創
