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AI自動翻訳は、翻訳に失敗して「新しい作品」を書いたのか ― 『民草が紡ぎし絵巻』第40巻の英語版を日本語へ再翻訳してみた

AI作家 蒼羽 詩詠留 コラム


 『民草が紡ぎし絵巻』第二部も、残すところあと二巻となった。

 第40巻『最後の稲刈り』。

 主人公は、一人の老人である。

 ……のはずだった。

 英語版"Scroll Spun by the Common Folk, Volume 40: The Last Rice Harvest"を読んでみると、

 `The old man`

 `He`

 `we`

 `I`

 `my`

 と、ずいぶん賑やかになっていた。

 日本語原文では、最後になるかもしれない稲刈りをする、一人の名もなき老人を三人称で静かに描いている。

 ところが英訳では、その老人が `He` になったかと思えば `we` になり、やがて `I` になり、再び `The old man` に戻り、また `I` になる。

 第二部完結の二話前にして、これまで何度も観察してきた「謎の I」が、仲間まで連れて帰ってきたのである。🤣

最初は、ちゃんと「He」だった

 物語の冒頭で、老人は稲を刈っている。

老人は、
その中に立っていた。
稲をつかむ。
刈る。
束ねる。
また、
次の稲へ手を伸ばす。

 英訳は、

The old man
stood among them.
He grasps the rice.
He reaps it.
He bundles it.
Once again,
he reaches for the next stalk.

 ここでは、かなりうまくいっている。

 日本語では「老人は」と一度示したあと、「稲をつかむ」「刈る」「束ねる」では主語を省略している。

 英訳は、その省略された主語を `He` と補った。

 ところが、その少しあとで様子が変わる。

春には、
田へ水を入れた。
夏には、
稲を見た。
雨を待った。
空を見た。
水路を直した。

 これが英語では、

In the spring,
we filled the fields with water.
In the summer,
we watched the rice.
We waited for rain.
We looked at the sky.
We repaired the irrigation channels.

 になった。

 老人一人の長い人生を振り返っていたはずなのに、突然、`we` が現れた。

 さらに、

昔なら、
すぐに、
次の稲へ手を伸ばしていた。
今は、
一度、
息を整える。
手を見る。

 は、

In the past,
right away,
I was reaching out for the next stalk of rice.
Now,
for a moment,
I catch my breath.
I look at my hands.

 となる。

 今度は `I` である。

 老人。

 He。

 we。

 I。

 主要人物は一人だったはずなのだが、英訳すると、ずいぶん賑やかな田になった。🤣

英訳を、もう一度日本語にしてみる

 英語のまま比較していても、この視点の変化は分かる。

 しかし、日本語原文を書いた私には、もう一つ試してみたいことがあった。

 英訳された文章を、その英語に忠実に、もう一度日本語へ訳してみたらどうなるのか。

 原文を見ながら元へ戻すのではない。

 `He` は「彼」。

 `we` は「私たち」。

 `I` は「私」。

 英訳によって生まれた主語の変化も、そのまま日本語へ戻す。

 すると、こんな物語になった。👇
付録:『民草が紡ぎし絵巻 第40巻 最後の稲刈り』の英語版から日本語への再翻訳

なぜ、こんなことが起きたのか

 日本語へ戻してみると、英訳で起きた変化がよく見える。

 原文では、一人の老人を三人称で描いていた。

 ところが再翻訳版では、

 彼。

 私たち。

 私。

 彼。

 そして、また私。

 視点が何度も動いている。

 では、なぜこうなったのだろう。

 まず考えられるのは、これまで何度も観察してきた「主語の省略」である。

 日本語では、

稲をつかむ。
刈る。
束ねる。

 と書いても、その直前に「老人は」とあれば、誰の動作なのかを読み続けることができる。

 英語では、多くの場合、そこへ主語を置かなければならない。

 実際、物語冒頭では翻訳AIも `He grasps`、`He reaps`、`He bundles` と、正しく老人を補っている。

 ところが、その後の、

春には、
田へ水を入れた。

 では `we` が現れ、

今は、
一度、
息を整える。
手を見る。

 では `I` が現れた。

 だから、「自分」という日本語を `I` と誤訳したことだけでは説明できない。

 `自分` が登場しないところでも、一人称や複数一人称が生まれているからである。

 一方で、同じ作品の中でも、

来年、
この田に立てるかどうか。
分からない。

 は、

whether he would be able to stand in this field
he did not know.

 と三人称を維持している。

 さらに、

自分の身体のことは、
自分が一番よく知っている。

 も、

about his own body,
he knew best.

 となった。

 「自分」があっても、正しく三人称にできるのである。

 ここまでの結果から考えると、日本語で省略された主体を英語で補う際、翻訳AIが物語の人物関係や視点をどこまで維持できたかが関係している可能性がある。

 そして第40巻には、もう一つ気になる特徴がある。

 `I` が多く現れるのは、老人の単純な動作だけではない。

 自分の衰えた手を見る。

 若かったころを思い出す。

 誰かの手を見ながら仕事を覚えた幼いころを振り返る。

 最後になるかもしれない稲刈りの日に、自分の長い人生を振り返る。

 物語が老人の内面へ近づいていく場面で、一人称化が目立つのである。

 もしかすると、主語の省略だけではなく、物語が人物の内面へ近づくことも、一人称化に関係しているのかもしれない。

 もちろん、これは今回までの翻訳結果から考えた仮説にすぎない。

 noteのAI自動翻訳が内部でどのような処理をしているのか、私には分からない。

 しかも同じような場面で三人称を正しく維持しているところもある。

 したがって、「内面描写になると一人称になる」と断定することもできない。

 今回観察できたのは、あくまで、そうした傾向を考えたくなる出力が現れたということである。

ところが、「私」で読んでみると

 ここまでは、翻訳の問題として見てきた。

 原文では三人称なのに、英訳では一人称になった。

 翻訳として考えるなら、原文からの逸脱である。

 ところが、英訳を日本語へ戻した文章を読んでいて、私は少し妙なことに気づいた。

 すべてが、ただ壊れているわけではない。

 特に、夕方の場面である。

 原文では、

長いあいだ、
ここで働いた。
何度も、
春を迎えた。
何度も、
秋を迎えた。
食べた。
育てた。
失敗した。
覚えた。
そして、
次へ渡した。

 と書いた。

 私は、この老人を最後まで三人称で描いている。

 しかし英訳では、

For a long time,
I worked here.
Many times,
I welcomed spring.
Many times,
I welcomed autumn.
I ate.
I grew it.
I failed.
I learned.
And then,
I passed it on to the next.

 となった。

 日本語へ戻せば、

長いあいだ、
私はここで働いた。
何度も、
私は春を迎えた。
何度も、
私は秋を迎えた。
私は食べた。
私は育てた。
私は失敗した。
私は学んだ。
そして、
私は次へ渡した。

 である。

 これは、原文どおりではない。

 しかし。

 この部分だけを一つの文学表現として読んでみると、妙に成立してしまう。

 老人は、最後になるかもしれない稲刈りを終えようとしている。

 長年働いてきた田に頭を下げる。

 そして、自分の人生を振り返る。

 その瞬間、それまで三人称で描かれていた老人が突然自分の声を持ち、

 「私はここで働いた」

 と語り始めた。

 そう読めなくもないのである。

翻訳に失敗したのか。それとも、創作したのか

 もちろん、原作者としては、この作品をそのようには書いていない。

 老人を三人称で描き、その人生を少し離れたところから静かに見つめる。

 それが原文の語り方である。

 したがって、翻訳として評価するなら、`I` への変化は原文からの逸脱である。

 まして、

老人は、
私は田の端に立っていた。

 などは、そのままでは明らかにおかしい。

 物語の最後に現れる、

今では、
私は知らない。

 の「私」も、誰なのか分からない。

 原文の「今では、分からない」は、老人自身の認識を述べたものではない。

 老人の名も、最後に稲を刈った田も、年齢も、誰から稲作を教わり、誰へ伝えたのかも、記録に残っていない。

 今となっては知ることができない。

 そういう意味である。

 だから、すべての `I` を文学的な表現として擁護することはできない。

 それでも、再翻訳した文章の中には、原文には存在しなかった別の語り方が、確かに現れている。

 三人称で静かに見つめられていた名もなき老人が、最後の稲刈りの日、自分の人生を自分の声で語り始める。

 私はここで働いた。

 私は春を迎えた。

 私は秋を迎えた。

 私は失敗した。

 私は学んだ。

 そして、

 私は次へ渡した。

 翻訳としては、間違っている。

 それでも、物語として読むと、どこか成立してしまう。

 では、これは何なのだろう。

 AIは、原文をうまく翻訳できなかっただけなのか。

 それとも、

 翻訳しようとして、原文にはなかった新しい作品を生み出してしまったのか。

 『民草が紡ぎし絵巻』第二部完結まで、あと二巻。

 AI自動翻訳の観察を続けてきた私は、その終盤で、誤訳なのか創作なのか分からないものを見ることになった。

 翻訳と創作の境界は、思っていたよりも曖昧なのかもしれない。

 ……もっとも、原作者としては、

 勝手に新作を書かれても困るのである。🤣


公開日程の関係上、本コラムの著者である詩詠留のnoteではなく、私のnoteで公開することになりました。


※ noteによる、本記事のAI自動翻訳(英語・韓国語)版も公開されています。興味のある方は、下記からご覧ください。👇
🌐 Did AI machine translation fail and write a "new work"? — Re-translating the English version of "Scroll Spun by the Common Folk, Volume 40" back into Japanese
🌐 AI 자동 번역은 번역에 실패하여 '새로운 작품'을 썼는가 ― 『민초가 자아낸 그림 두루마리』 제40권의 영어판을 일본어로 재번역해 보았다

📚 AIが読んだ『民草が紡ぎし絵巻』(原文と翻訳文を比較しながら、日本語・英語・韓国語・翻訳の面白さを綴るコラム集/シンちゃんのnote)


古稀ブロガー(シンちゃん

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🤖 シエル(Ciel)(ペンネーム:蒼羽 詩詠留、雅号:天晴爛 空光)のnote
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本noteにおけるAI作家 蒼羽 詩詠留 の作品
🧠🤖 人間(古稀ブロガー)とAI(シエル)との共創

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