見出し画像

それでもよければ


10年の、月日のことを思う。

外では百日紅の花が赤くしだれ、ゆっくりのどかに揺れている。白い射貫くような日の光の中で、立ち尽くして揺れている。

あの頃のことをきれいに忘れ去ることが、今日もできない。いつまでも、気づけば過去に起きたことの意味を、数えている。そして今日も、パソコンに向かう。


あの頃の私は、いつも焦ってて。
今さらになって、何度も何度もできごとの意味を掘リ返しては透かし見る。


あの頃、一か月、一週間、一日が、惜しかった。
つまらない事実だった。
女性は、見せないんだ。だけど、ほんとはめちゃくちゃ焦ってる。だから、祈るし占うし、無理しても笑う。


好きな人の前では、一日だって若い自分でいたいから。
この切なさが、わかるだろうか。


ざわめきと笑い声の溢れるファミレス。 


あんなに警戒してた割には、私は完全に執着の虜になってしまった。ほんと人生、うまくいかない。ちょっぴり汚れた自分を省みる。

でも、私が決まって思い描くシーンは、やっぱり高校生のようだった。

思い描く彼との夢のシーンが、想い出の地とか観光地じゃない。ファミレスだなんて。
慎ましすぎて、泣ける。

あの頃は、妄想が止まらなかった。


彼と堂々、ランチしてる自分。満開の笑顔で覗き込む。
どんな言葉も飲み込んだりしない。周りから顔を隠したり、入口をキョロキョロ確認することもない。手の置き場にもそもそしたり、言葉の裏を読もうと視線を泳がせることもない。


うれしいことはうれしい。楽しいことは楽しいって、ありのまま表現できる。子どもみたいに。 

ねぇ。
そんな現実って、いつか、ほんとに来るのかな。


…その頃、私はもしかしたら70歳になる?笑
自分で考えてて、笑う。
それ本気?
それとも、80歳ならあり得るのか?
…そんなに、私は、待てるんだろうか。

そもそも、待ってるなんて彼に話したこともなかったくせに。
私が一人、決めたことだった。

手に浮くようになった血管の瘤を愛おしくなでる。
髪に混じるようになってきた白いものを、目もとに隠せなくなっていくしわを、数えてしまう。

ああ、また会えずに一日が過ぎていく。

今のまま。今の自分のまま瞬間冷凍できたら。そんな思いをたった一人抱えてる自分が、切なくて、現実離れしてるって思った。

そんな日々を、
彼には無事、隠し通した。
そもそもすべて、私の妄想の中の話だった。


彼と、最初に想いを交わしたのは、LINEのチャットだった。

「にこっちは俺のことどう思ってるの?」

初めは、言葉遊びだった。
どうでもいい会話が、意外なくらい心地よかった。

朝から晩まで、気づいたら眠りに落ちる瞬間まで、彼との会話で埋め尽くされた。
どんだけだ?


片目でドラマを流し見しながら、笑って聞き流してた。
ずっと聞き流し続けるつもりだった。

そのうち、笑えなくなった。


文字が胸の中で踊った。
通知音に心臓が跳ねてしまう。


指先が冷たくて、血が上った頬でこっそり温めた。
何度も、画面を見返した。食事の味も、抜けてしまった。
あのへんから、おかしかった。

ニ週間ともたなかった。 

スマホを肌身はなさず、持ち歩くようになった。


私は、意外とちょろかった。


たぶん、衝撃をまともに食らってしまったんだ。
私自身の価値など、自分の中で長いこと忘れていた。価値があるとしたら、自分以外のすべてのもの。自分は、対象外でやってきた。
だから、私には衝撃だった。


あの時。
確かに私は、全身で喜んでた。地面の上、10センチすれすれの位置で上下していた私の価値は、彼によって天国まで浮上した。

なんて、あっけなかったんだろう。

そんな宙に浮いたようなやりとりの後も。
彼の職場での態度は、ひとつも変わらなかった。

この意味が、どうしてもわからなかった。
白か、黒。グレーは落ち着かない。

戸惑った。気持ち悪いくらいだった。
同じ人と、どうしても思えない。



たまらなくなって、思い切って「どうしてなの?」と聞いた。


職場の車内だった。

その日の業務も、昼食も終わった。
職場に戻るまでのたった20分。
わずかなチャンスの時間だった。 

その時、なぜだろうか。

午後の気だるい、柔らかだったあたりの空気の質感が、心なしか硬くなった気がした。やっちゃった?

出してしまった言葉を、少しだけ、取り戻したくなった。


彼は言った。

「俺はさ。このままでもいいかな、と思ってたんだ。にこっちは、そうじゃないんだ」

しばらく無言だった。彼は、考えていた。ゆっくりと時間は止まっていった。
LINEでは時間が飛ぶように過ぎるのに、今は少しずつ止まっていく。


天国って思ってたけど、
思ったより、天国なんて、ちゃちかった。
ふふ。
現実ってどうしてこう、バカバカしさに満ちてるんだ。


家事を脇に押しやって、夜中には布団をかぶって、隠れるようにLINEしたあの時間。ご飯を作る。洗い物をする。洗濯物を干す。家族と離れる一瞬に、素早く返信する。 


家族の足音に、いつも耳をそばだてた。
私だけ、自分の部屋がない。安心して彼とLINEできる場所は、トイレかお風呂の中、くらいだった。

だから、LINEの時間は、貴重な私の二つ目の生活時間になった。
気づけば私の生活は、二つに分裂していた。


あのやり取りって、結局何だったの?


車内の時計が1分、カチリと進んだのが見えた。

何を考えていたんだろう。彼は塊のまま動かない。
聞けなかった。
ただ、怖かった。

今もまだあの数分間、彼が何を考えていたのかわからない。


今、書きながら気づく。
あの瞬間もうすでに、私たちの温度は違っていたのかもしれなかった。

彼はきっと、あのままで満ち足りていた。
私だけが、違った。

私はその先がどうしても知りたくなってしまった。そのままでは息が詰まりそうになってる自分に、気づいてしまった。
彼に引っ張り出してほしくなった。息が、吸いたかった。

彼は口を開いた。

「にこっちが好きだよ。にこっちが大事。だけど」

言葉を切る。

交差点の信号待ちだった。
目の前をゆっくり、犬を連れたおばさんが横切っていった。信号が変わるまでの一瞬がとても長くて、唾をごくりと飲んだ。
空気が、堅い。

「俺には、家族が、一番なんだ。これだけは変わらない。わかってほしい。それでもよければ」

目が、ちかちかした。でも、黙ってた。

どんな表情でこんな話をしてるんだ。
どの口が、言ってる。

動悸がした。

急にフロントガラスに張り付いた落ち葉が、半分ちぎれて風に吹かれているのが気になった。
何かがひっかかっている。何かが決定的に、引っかかっている。
でも、言葉が。
言葉が、脳みその中で沼のようにどろどろと絡まって一つも出てこない。

思ってることを口にしてくれたこと。沈黙を破り言葉にして伝えてくれようとしたこと。そのことに、ほっとした。

でも。それで? 

喜んでいいのか悲しんでいいのか。私は、自分が笑いながら泣いてるような気がした。頬が熱い。熱を持ってるのに、冷たい。
背中につっと汗が流れた。

それでもよければ?
  

私も同じだよ。
家族が一番なんて、当たり前じゃん。

だけど。
なぜ、今なのかな?

そういう約束だからね。
後からは何も言わないでよね。ってこと?

初めに言いたかったのは、そんなこと?


彼の、黙々とこなす合理的な仕事ぶりが、目に浮かんだ。

なんて、彼らしい、言葉なんだ。

喉がぎゅっと詰まった。
彼の顔を見ることもできなかった。

追い詰められちゃった。

ただ、「うん」と言うことしか、私には選択肢がない気がした。


あの日の車内の匂いを、今も覚えている。ほこり臭い、職場の空気を思わせるよそよそしさ。
放置されたクリップ。熱気にゴム部分が半分溶けたボールペン。
いつもの時間が、いつもじゃない。



そわそわして、深く腰掛けることができなかった。


10年経った今も、あの車内の匂いがよみがえる。




この記事は、「温度差」をテーマにした連載の2本目です。

1本目「昇格した音がした」





いいなと思ったら応援しよう!