私のcosMoとの出会いと愉悦の話をしよう。或いは、もうやめよう
こんばんは世界。cosMo信者です。
エッセイが発売される前にどうしても書いておかねばならなかった話をします。
これまでこのnoteでは布教やデータ収集、解説や鳥瞰といった記事を執筆してきました。
共通して心がけていたのは界隈や情報を求めている人への一助となること、そしてなるべく主観を排する、もしくは主観と客観を分けて記述することでした。
かくあるべしと意識的にしてきたことです。
今回はその矜持を捨てて、私にとってのcosMoの話をします。
他でもない、懺悔の話です。
私がcosMoと最初に出会ったのは2010年。国擬人化漫画「Axis Powers ヘタリア」の手描き動画からだった。
この二つどちらだったかは最早定かではないが、いずれかから原曲に飛び、そこから初投稿の「電脳スキル」へ、そして順繰りに聴いていった。既にそこそこの曲数があったが、高校1年生には時間と気力が沢山あったのである。
それまでMADなどで使われているのを聴きはしていても、VOCALOID曲の原曲動画そのものに直接触れることはなかったように思う。初音ミクの存在くらいはニコニコ動画を見ている以上、最低限は知っていた…と思うのだが、総合ランキング等、ニコニコのメインストリームを追っていたわけではない。「初音ミクの消失」をちゃんと知っていたかどうかも怪しい。
つまり私はcosMoから初音ミクのなんたるかを、VOCALOID文化とはどういうものかに触れた可能性が少なくないのである。それは劇薬とまでは言わずとも、文化の極北に最初に触れてしまった、とは言ってもいいだろう。
「AT∞H」にしろ「∞」にしろ、最初にcosMoに惹かれ全曲巡回を決めたのは高速歌唱の面白さとコード進行の(私にとっての)斬新さ、音作りの良さであったように思う。ただ最終的に一番心を惹かれたのは、消失シリーズの初音ミク論だった。「∞」と「分裂→破壊」が2強、次いで「戸惑」が良い、という感じだったように思う。初音ミクは道具でしかないという冷めたキャラクター論、それを一見キラキラとした音色と調性で歌い上げるクールさ。
ついでに言うと「∞」「分裂→破壊」は旧サムネ絵も芸術的だと思っている。今でこそアルバムSSは必須級であると主張しているし、その主張は変わらないが(特に「分裂→破壊」については)、アルバムSSに触れる前からこの2曲は総合的トップに君臨していた。
暫くはmp3やレンタルしたアルバムをipodに入れ、大百科で考察を見、cosMoのtwitterを覗き、という模範的聞き専だった。というかボカロリスナーという括りにおいて聞き専でない方が稀有である。オタクとしては変わらずヘタリアのオタクをしており、ただよく聞く音楽がVOCALOIDになり、その中でも暴走Pの音作りと世界観が好き、という具合の温度感だった。
転機が訪れたのは2013年1月。受験期どころか受験シーズンの真っ最中でも元気にリスナーをしていた私がウキウキで開いた新曲が、
ラクガキストだった。
以前にも書いたが、ここで私はあるキーワードに疑念と関心を持つようになる。
「らしさの呪縛」である。
そこで初めて、「推し」としての全能の存在ではないcosMoに目を向けた、と言えばいいのか。
高速歌唱という十八番、開拓者としての唯一無二性が生むのは、本当に功績だけなのか?
「園庭想空の女少」ではまだ気に留めなかった、キャラクターの物語として消費したその問いが、作者自身の物語という具体性を帯びて浮かび上がった瞬間だった。
だがそれ以上の進展があるわけでもなかった。何かできるわけでもなかった。
というか多分センター試験の数日前である。考察している余裕はない。勉強しろ。
4月。受験を舐めきった態度の私も晴れて大学生になった。スマホを買ってもらい、また時間的余裕もでき、いつでもニコニコが見られるようになった。
「AI少女」からは動画投稿によりリアルタイムで立ち合い、生放送もそこそこの頻度で覗けるようになった。自分でもtwitterアカウントを持ち、たどたどしいながらcosMoクラスタの輪に入って細々交流をした。
そして迎えた8月9日。
ご存じ「終点」である。
その意味については散々語り尽くしたので過去記事に譲る。
インパクトが甚大なものであった、というのはご承知の通りだろう。
だが今から振り返ると、私個人にとっての「終点」とは、曲自体の衝撃以外にも内心に動揺をもたらしたものであったように思う。
それは杞憂しながら笑っていたら本当に空が落ちてきてしまったような。
直截に言うなら二次創作が現実になってしまったような。
突然だが私は闇のオタクである。バッドエンドもハッピーエンドも等しく愛しているが、その過程が複雑で苦しいものであるほど心躍る。
好きなキャラクター傾向は「ギャップ」だ。まあ大体のオタクがそうなのかもしれないが、私のそれはより細分化して言語化できるものだ。
例えば、凡庸で静かな生活を望みながら革命的カリスマと不幸を愛する傾向性から逃れられない者。
例えば、人の幸福を望みながら人を傷つけることに天性の才がある者。
或いは、程々のアウトロー性と築き上げた地位を捨てないままに、全く違う品行方正さと一から立場を作り上げる生活をも望む欲深き者。
つまりは、本人の性格や願望と才能の方向性に、どこか矛盾や乖離のある者。
全ての推しが当てはまるわけではないが、無視できない多数がこれに相当する。
そしてその大体が物語の主人公でもある。理由は明白、その矛盾と葛藤が物語の核の一つとなり、濃密に描かれることが確定しているからである。
そして人類はおしなべて、自分の物語の主人公である。その全容は神のみぞ知るとしても、カットも場面転換もない数十年の歴史という圧倒的情報量が虚構に勝るとも劣らない深みを提供してくれる。人はアカシックレコードを認識できないが、自分の目と耳で他人を観測することはできる。
かくてその「コンテンツ性」が損なわれることはない。
お分かりだろうか。
私はcosMo@暴走Pを、矛盾と葛藤に満ちたコンテンツとして消費していた。
それがラクガキスト以降終点以前、と言うならただ半年ちょっとの話で済む。だが二次創作を公式にされて憤るオタクばかりではない。ましてそれは虚構ではない、現実を生きる人間の話であり、悲しみこそすれ憤るのはだいぶ頭のヤバい奴である。
かといって面白がるのもまた頭のヤバい奴である。
それが私だった。
弁解しておくと、その当時に感情をはっきり自覚したことはないし、その類のことを書き込んだこともない。表面上では、いやむしろ心から、私は悲しんでいた(という表現で片付けられないほど、多くの感情が渦巻いていた)。
だが繰り返すが私は闇のオタクだ。その「悲しんでいる」は「物語の進行を楽しんでいる」と変換して差し支えないことも、また事実だったと思うのだ。
そこから「物語」はいくつかのターニングポイント=楽曲を経て終着へ向かった。
For Ultra Players。# 誰かこの痛みに名前をつけてください。
そして。
この世界を赦すようになった
ああ、終わったのだ、と思ったのだ。
cosMoという「シリーズ」はまだまだ続いていく。しかし「私が入れ込んだキャラクターとしての暴走P」は、赦しをもって葛藤を解消し、一つの章を終えたのかもしれないと。
苦しみの4年間の事実は消えない。私の中でその章はお気に入りとなり、何度も読み返し、考察を続けることにはなるだろう。けれどcosMoという物語自体は、これからは元通り、健全に、熱心な一ファンとして追っていこう。
喪失感は拭えない、だが爽やかな幕引きだった。
そのはずなのだ。
属性“REAL”を“FAKE”に書き換えることに成功しました。皆様のおかげです。
分からなくなってしまった。
あの章は作り物だった? あれはあくまで、比喩ではなく真の意味で、「物語」であると言うのか。
私達のおかげでそうなったと。
肯定的に捉えるならば、成功を掴めたので、ないし納得したので、あの時期も一つの糧として進めるよ、ということだ。それは人間にとって健全で建設的な苦悩の乗り越え方であり、これこそまさに喜ぶべきことだ。
FAKEにまつわる様々な作りこみが、全て「物語」として美しくなるように凝らされた趣向であるというなら、それもとても素敵なことだ。キャラクターとして以前に、cosMoの世界観も思想も私は大好きなのだから。
だがその発想に私は辿り着くことができなかった。
そう簡単に苦しみを総括できるものなのかと訝しんだ、などと言い訳を捏ねることはできる。けれどそれは言い訳でしかない。cosMoは少なくとも世間的には成功者で、私よりよほど行動力と気力その他のある人間なのだから。
苦悩の歴史を数年で物語として加工できても、私が疑問を感じる余地はないのだ。
だから肯定を渋った理由は単純だ。
あの数年が現実であるということに、私は同情という愉悦を感じていたから。フォロワー、ブロックするなら今だぞ!
「RAR」以降の数年、事態は動かず、やがて文脈は埋もれていくように見えた。私は新曲から好みの断片を抜き出しては啜り、あることないことを妄想散らかしていた。
何事もなかったならそれでいい。
それでいいのに。
本当に分からなくなってしまった。
そして今に至る。
断っておくが、「らしさの呪縛」だけがcosMoではない。楽曲的にも(無論)人間的にも、もっと多面的で、無数の魅力がある。ただ私が好んだのがそれだったというだけの話だ。
そしてその私の好みが、その文脈を過大/過小評価しているのではないか、という疑念は常に付き纏っている。
推し作品の客観視が難しいように、推し文脈の客観視も難しい。一人の人間の話としてならなおさら。
果たして私は今、彼を批評しているのか、布教しているのか、それともただ消費しているだけなのか。
分からないから、読者に委ねるしかない。
私は彼のために何ができたのだろうか?
あと数分で月が替わる。エッセイが発売される。
その内容によっては、このnoteの大部分の記事も役割を終えるかもしれない。
それは喜ばしいことだ。本当に。
皆様どうか、健全なVOCALOIDライフを。健全な人生を。
