円空34歳、2度目の悲泣。
◉やがて12万体の仏像を彫る大願を誓うことになる
円空は、どのタイミングで12万体もの彫仏をしようと考えたのでしょうか。
それが推測できる文書に、
無垢清浄捨身ノ行者ト為リ、純ラ行基僧正ノ人為ルヲ慕ヒ、自ラ十二万ノ仏軀ヲ彫刻スル之大願ヲ発シ、矣也
"無垢清浄の捨て身の修験者となり、行基を慕い、自ら12万の仏像を彫る大願を発した"とあります。
これは、行基の彫ったといわれる御本尊がある高田寺で、密法を受けた後の話しになります。(詳細はこちら☟)
高田寺は現在も北名古屋市にありますが、今も隣接して白山社が鎮座しているそうです。円空の頃は美濃に留まらず尾張までも白山信仰が盛んでした。
このような環境で育った円空は、行基と白山信仰の祖である泰澄の2人を師とし、12万体の仏像を彫る大願を誓い、23歳で修験の道へ飛び出します。
◉32歳になった円空は、地元の神社で御神体の修復や制作を任されるまでになっていた。
円空の最初の像は、円空の地元である現在の岐阜県郡上市美並町の根付神明神社の3体の神像とされています。
その神社の棟札には、
天照皇太神宮 阿賀田大権現 御尊躰
円空修造之
と記銘があり、

イメージ図🙇
この2体は円空の修復した神像である事が分かります。

同じく🙇
もう1体の八幡大菩薩像の棟札には、
御本尊初奉入也
と記銘があり、初めて円空が制作した御神体だと分かります。
更にこの棟札により、円空32歳の
1663年11月6日に納めた像だという事も分かります。
この根付神明神社は、星宮神社の奥之院であり、星宮神社境内には、かつて別当寺だった粥川寺が今もあるそうです。
この粥川寺で、1663年円空32歳の時に
"得度"したとの伝承があり、岐阜県郡上市のHPにも記載されています。
諸説あるようですが、私もそう考えます。
その理由として、
【出家】家を出て仏門にはいること。俗世を離れ仏法修行の道にはいること。
【得度】日本では得度して僧となるには官許を必要とし,勝手に得度したものを自度,私度といった。江戸時代以後,得度は諸宗の権限にまかされた。
上記から、円空が幼き時に寺に預けられた時点で出家したと捉え、円空は意図せず出家し、
その後、自らの大願を達成する為、修験道に入り、9年間の修験を終え、自ら得度したいと考えたと推測。
また、円空が32歳で仏道に入ってからの18年間、身を奉じてきた"ことを記した般若心経奥書があり、
(詳細はこちら☟)
円空がなにをもって仏道のスタートとしたのかを考えると、得度し僧になった時点だと考えたからです。
更に、得度したとされる寺が"粥川寺"である事も信憑性が高いと考えます。
何故なら、粥川寺が管理する星宮神社の奥之院で円空は最初の御神体3体を奉納している。
また、この地が円空の"原郷の地"でもあるからです。
"原郷の地"については、実際に訪れてから記したいと思います。
◉そこで、神主の西神頭安高と出会い、
『円空』としての大きな一歩が始まる。
【名字】西神頭
【読み】にしごとう
岐阜県郡上市美並町にある星宮神社社家。かつては美濃市須原にある洲原神社の社家であった。
白山を開き白山信仰を創始したといわれる僧侶、泰澄の弟の三神安定が、泰澄の建てた洲原神社の神主になったことに始まる。安定には実子が無く、泰澄の兄の安方の孫安直が養子となり神主を継いだ。(略)
子孫は西神頭、東神頭、勝原神頭の三神頭家に分かれ郡上郡の殆どの神社に奉仕した。
西神頭家は江戸時代には西小藤と称したという。
円空が得度したと思われる粥川寺と、隣接する星宮神社の当時の神主が
"西神頭 安高"でした。
円空の最初期像3体のある根付神明神社の棟札を記銘したのも"西神頭安高"です。
上記からも、西神頭家は泰澄の血筋を引く社家であり、郡上郡の神社の多くで神官をしていました。
西神頭家は円空の良き後ろ盾であり、特に一つ歳下の"安高"は、円空の良き理解者であった事は確かだと思われます。
◉一つ歳下の安高と円空は共鳴し、
二人は大きな情熱を持って、
この頃次々と神社創建に携わっていく
◉しかし、安高は33歳で急逝
理解者であり同士でもあった、安高の突然の死に、円空はどれほど嘆き悲しんだでしょう。
34歳の若さで大切な人の死を、2度も経験する事になります。
まだ行く筈ではなかった蝦夷行きを、この時決心したのだと思います。
安高の死を告げる為、円空は泰澄の墓へ向かい、そのまま北へひたすら歩いたとの推測のもと、YouTube円空ジャーニーに続きます。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。🙇
