円空、ついに蝦夷入り⁈
円空は、蝦夷に渡る35歳になる年(1666年)の1月26日、弘前城下で役人に声をかけられています。
円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由
円空と申す旅の僧が、弘前城下の長町に滞在していたが、ここに差し置く訳にはいかないと仰出候(お命じになるの意で、藩主に対してのみ使うような言葉。堺弘比呂志『円空仏と北海道』より)
円空にその命を申し渡すと、「今日26日に此処を出て青森を経由して松前に向かう」と答えた記録があります。
前年の1665年に"諸宗寺院法度"が導入されたばかりで、この藩庁日誌には、山を越えて入る山伏や行人、行方の知ぬ者には国へ入らないように申しつけた等の記述もあり、厳しく取り締まっていた事が分かります。
その中で、円空は長町をむげに追い出された訳では無い事が分かります。
また、"僧"と書かれている事から得度したことも伺えます。
(円空の得度についてはコチラ☟)
では、円空は青森のどの港から松前港に渡ったのでしょうか。
『八雲町史』と『福島町史』には、松前藩の参勤交代のコースが書かれており、1635年〜1669年には、最も危険な白神岬と龍飛岬間の海峡は避け、
松前⇔小泊間を使っていたようです。
円空が蝦夷を去った2年後には、アイヌの蜂起の際に津軽藩の援軍が使った、松前⇔三厩間が定型化するとの記録もありますが、青森の小泊(太田家)には円空の極初期の男神像が残る為、小泊から出港したと考えます。
津軽海峡を渡れる時期については、当時の弁才船は春の彼岸頃から夏の終わり頃までの就航だったようなので、春の彼岸(旧暦では2月25日頃)の、海の穏やかな日を待っての出発だったと考えます。

では、何故円空は蝦夷へ渡ったのでしょうか。きっかけは前回書いた、一つ歳下の西神頭安高の死だと思っていますが、蝦夷行きはそれ以前から決めていた事だとも思っています。
その理由として、1663年の蝦夷地 有珠山の噴火があります。(蝦夷と若狭湾での交易は盛んだった為、噂は円空の耳にも届いてた筈)
もう一つに、木喰戒の実践例(堺比呂志著『円空仏と北海道』より)があります。
⑴遊行回国と行道、一所不在
⑵木喰行と断食行
⑶懺悔滅罪と苦行
(千日行・垢離行・精進)
⑷窟ごもりと禅定、山ごもり、島渡り
⑸加持祈祷と託宣
(除災招福・治病雨乞)
⑹勧進(講作り・札配り)
⑺作法(千体・万体仏・神像・自刻像)
⑻作歌(和歌・祭文・願文)
⑼一心観(禅観・唯心観・心字花押)
⑽真言、念仏、法華経の併修
(11)即身成仏の自覚
(仏号・菩薩号・阿弥陀号)
(12)入定と捨身
どの宗派がどの様な修験をするのか等は分かりませんが、円空はこの木喰戒は全てやり遂げたと思われ、だとすれば、⑷の"島渡り"は行の一つとして、全うする為、まだ未開の地とされていた蝦夷を選んだと思います。
ちなみに、⑼円空の花押は"一心"です。
チワヤフルたつかそおもふ北の海
只ひとすしに渡 日の本
(歌番一一六三)
菊池展明氏は、この円空の一首に蝦夷行きの決意を詠み込んでいたとし、
円空は迷うことなく(「只ひとすしに」)、本土(「日の本」)を後にして、津軽海峡(「北の海」)を渡ったと書いています。

次回は蝦夷の地を踏めると思います^^;
最後までお付き合い頂きありがとうございました。🙇
