【武田神社】甲府盆地最大のパワースポット!紆余曲折の創建秘話
2時間越えの下道ドライブ
武蔵御嶽神社の参拝後、ドライブがてら青梅街道を車を走らせて甲府の武田神社に向かったのだ。
武蔵御嶽神社の記事はこちら
私「甲府の方に向かって武田神社へ行っていい?」
奥さん「遠すぎないならいいよ」
普通に考えたら、甲府は遠い。
でも神社巡りを始めて、行けるチャンスがあるなら、どうしても思い入れのある武田神社に行きたかったのだ。
その時、自分が奥さんにどう返事をしたのかはよく覚えていない。
気づけば、結果的に2時間以上の下道ドライブが始まっていた。
城跡に鎮座する神社の類例
城跡に神社があるケースは珍しくない。
珍しいどころか、現存や復元の建築物がある場合を除けば、主要な城跡にはほぼ必ずあると言ってもいい。
特に多いのは護国神社だ。
弘前城、鶴ヶ岡城、広島城、姫路城、彦根城、熊本城、大垣城、和歌山城、松江城、高島城などだ。
その他、藩主を祀っている神社もあるが、
どちらにしろほとんどが近世城郭である。
※上杉神社(米沢城)、櫻山神社(盛岡城)など
私が知る限り、中世城郭で神社がある例は少ない。
あったとしても、政府の方針で創建された千早神社や金崎宮などだ。
近世大名の祖先となった毛利元就を郡山城に祀る豊栄神社、
京都の船岡山城も中世城郭と考えれば、
ここに鎮座する織田信長の建勲神社も少ない例のうちと言えよう。
ただし、2社とも政府の命令に近い。
そう考えると、武田神社は上記の例のような城跡内に作られた神社というより、御祭神と城跡との関わりが濃い上、極めて特殊な成り立ちではないか。
武田神社
令和5年3月上旬


石段の両脇に石垣がある

武田神社は、『武田氏館跡』として
日本百名城にも選ばれている。
当時の遺構は土塁と水堀くらいで、神社の入り口の両脇の石垣は、武田氏滅亡後の織豊期に整備したものと判断されている。
神社の入り口を作るために、石垣を崩して石段を作ったそうだ。
館の大手門は東側にある。
遺構は少ないものの、中世の守護の館から、戦国大名の近世手前の城郭としての完成度から選ばれたとされる。
扇状地の頂点を選んだ信虎の慧眼
『武田氏館跡』についての詳細は専門家にお任せするとして、
私が最も武田氏館の凄さを感じるのは、
この「立地」にあると思う。


甲府盆地の北端にあるとよく説明される。
確かにその通りだけど、
実は武田神社の標高と甲府駅の標高では36メートルの標高差がある。マンションでいうと12階建だ。甲府駅から武田神社まで『武田通り』がまっすぐに通っている。
私も昔、歩いた事があるが、一見、平坦な道のようでいてこの微妙な傾斜は、いやーな傾斜ではないか。無理だとは言いにくい絶妙な傾斜で遮る建物が少なければ、相当遠くても見渡されてしまう。
当然、大軍を迎えようとすると耐えられる防御施設にはならないが、こちらから出撃して戦うには戦いやすい地形ではなかろうか。
まっすぐな『武田通り』を神社から見下ろすように見てるだけで、この「立地」に興奮してしまうのは私だけでしょうか。笑

武田24将の館が並ぶ
「大どんでん返し?」武田神社創建秘話
武田神社の創建は、大正8(1919)年である。
ただし、機山公霊社として明治10年頃には、既に武田氏館跡に有志により祀られていたらしい。
それは、明治以降に県令が「大小切税法」の廃止を断行したことにより、県民の信玄への追慕が急激に高まったからだ。
大小切税法とは、江戸時代は年貢として米で税を納めるのが大原則のなか、米があまり取れない甲斐国において、一部を貨幣で納めるのを許されていた実質的な減税の慣習である。
その起源は不詳だが、現地では「武田氏の時代からの恩恵」と信じられていた。
そんな中、制度の一律化を進めたい明治政府(山梨県令)は、信玄への追慕を新政府の統治の障害と判断。
お抱えの『峡中新聞』を使い、「親不孝の極み大悪人論」や「領民を苦しめた張本人」といった、今でいう過激な偏向報道(ディスり記事)を何度も書かせたらしい。
しかし、ここから「大どんでん返し?」が起きる。
明治13(1880)年、
明治天皇が山梨に行幸した際に信玄を激賞。
さらに明治15(1882)年には、
政府が裏で進めていた伊勢神宮への一神教化政策が全国的な反発で挫折。
国の方針がガラリと転換する。
「地域の英雄でも、国家の道徳に貢献した人物なら神社に祀ってOK」となったのだ。
そこへ明治35(1902)年、
上杉謙信を祀る上杉神社が別格官幣社に昇格すると、山梨県民の対抗意識で一気に機運が高まった。
大正4(1915)年11月10日、
大正天皇の即位礼に合わせた信玄の従三位贈位で武田神社創建への熱量は最高潮に達し、ついに認められることとなった。
神道の原点?空間信仰とは
このように、武田神社の創建には明治から大正にかけての国家的な宗教政策の大きな地殻変動が関わっている。
制度の変遷や政治的な話も面白いが、そこにフォーカスし過ぎると、神道もしくは神社、あるいは日本人の精神文化にとって重要なことが矮小化してしまう。
最近、動画でたまたま『空間信仰』という言葉を耳にした。
深く納得したし、私の意識は瞬間的に武田神社と結びついた。
武田氏滅亡してから300年間、
その空間=「信玄が住んだ館跡」に信玄の事績、追慕や敬愛とともに、人々の祈り(=願いではない)が言葉にならない「記憶」として蓄積されていったのではないか。
空間信仰は、外国人には理解できない例として、剣道や柔道などの武道で、試合場に入る時の礼や鳥居を潜る時の礼は決して対戦相手やその神社の御祭神に行っているわけではなく、その「空間」(=「場」)に対する敬意を表しているという。
信玄の時代、ここは単に「館」と呼ばれていた。
それが後世、「躑躅ヶ崎館」という美称で呼ばれるようになる。
単なる地名由来という説もあるが、私は主を失った場所をただの「館跡」や「古城」と呼ぶのが偲びないと考えた後世の人々が、当時からあった愛着のある地名を冠したのだと思っている。
まさに甲斐国のために生き、甲府の発展に努めた信玄のこころがそのまま、山梨県民のこころに生き、いま誰もいないはずの場所に、信玄がいた時の感覚を重ねて、敬意を捧げる。
その想いが空気を変え、ここをただの「跡」ではない、記憶媒体としての「空間」へと昇華させたのだと思う。

例によって奥さんに、
「武田神社どうだった?」と聞いてみた。
「神社へ行くまでの坂の通りが好き」
あの『武田通り』は、信玄が作った城下町の道ではない。武田神社創建後に、わざわざ作り直した道なのだ。
細かい歴史を知らなくても、人々の強い想いは直感的に伝わる。奥さんのその一言に、深く腑に落ちるものがあった。
いまの甲府の発展の中心地は、明らかに武田神社の周辺にはない。にも関わらず、甲府駅から2キロにも及ぶ『武田通り』は、甲府の街を象徴しており、日本一長いとされる大宮の氷川神社にも劣らない
正真正銘の『参道』であると思った。
大宮の氷川神社の記事はこちら
御朱印


御朱印と合わせて御朱印帳も頂く。
『武田神社』は個人的にも思い入れのある場所だ。
幼少の頃、3年間甲府に住んでおり、
私の5歳の七五三の祝いの場所でもあり、
私の歴史好きの原点である。
御朱印に押された龍朱印は信玄・勝頼期の公式文書で使われたものを模していて、歴史好きには嬉しい。
「甲信の神社はこの御朱印帳でいこう」
御朱印帳を手に取って、
これからの旅に思いを馳せると、自然とニヤけてしまうのを必死で抑えるくらいワクワクした。
基本情報
鎮座地:山梨県甲府市古府中町2611
授与時間:9時頃〜16時頃
※最新情報は公式HPをご確認ください
参拝所要時間:30分くらい。
Googleマップ
次回予告
最後までお読み頂きありがとうございました。
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次回は信玄が、恋焦がれた京都の、
通称上賀茂神社、
『賀茂別雷神社』です。
ついに京都の奥深い世界へ。
お楽しみに。
「甲信越」の神社の記事はこちら
都道府県別「最多参拝者」の神社はこちら
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