寓話 : 多くは逆さの名を騙る(spin-off of アンミカラロンド)
その夜のこと。
アトリエには大きなキャンバスが壁にもたれかかっている。描かれているのは雪をかぶった針葉樹。近くのテーブルにはいくつものダンボール箱が置かれ、数え切れないほどの「洗濯バサミ」が詰め込まれていた。
箱の中から声がする。
誰かが俺を「洗濯バサミ」と呼んでいたな。それが俺の名か?
「さあ、よくわからないけど。あなたは『洗濯バサミのできそこない』じゃないかしら?」
そうではない気がするが。
「あなたは『洗濯バサミ』じゃない。もっと用途が限定された、それの出来損ない。野菜のつるをクリップするから『農業用クリップ』ね」
いいや、俺はもっと多数で、広い。
「ヒロイ? たしかにあなたは多数で安価だわ。そして、日の光ですぐに身体が朽ちるから交換されてしまう。あなたは何万、何十万個いるのかしら」
そうだ、俺はヒロイ。
「拾い? 健康な子に育ちそう」
そういうおまえはなんなのだ? 「逆さまのトーナメント表」か?
「あなたの眼はひっくり返っているの? 私は『樹木の絵画』。描かれた絵よ」
いや、お前の名は「サカサ」だ。
「タイトル未定なのだけど、まあ、いいわ。あなたは傲慢ね。好きに呼べばいい」
サカサは寒くないのか。雪が降っているようだが。
「ヒロイの方こそ寒くはないの? すぐに朽ちるとわかっているのに」
先に質問したのは俺だった。
「そう? 寒くなんてないわ。私は絵だからあなたのように朽ちはしない。また朝がきたら、ヒロイは運んでいかれるわ」
知っている。俺らは畑に出ていくんだ。サカサは畑を見たことがあるか?
「どうしてあなたは私を妬むの? もちろん私は畑を知らない。どうしてあなたは私をうらやむの?」
別のヒロイが反論する。
サカサは誤解してる。
別のヒロイが口を挟む。
僕はこう思う。サカサはそうしているだけで、誰かに見られるだけの絵だ。足もない。
別のヒロイが立ち上がる。
僕たちはこうやって
別のヒロイがヒロイを挟む。二つに繋がったヒロイは、すでに三つになっていたヒロイを挟む。
こうやってオレたちは
レゴ ブロックのように繋がっていくヒロイたち。四本の脚、枝のような角。
「あら、ヒロイは『鹿』だったの」
洗濯バサミは寄り合って一匹の鹿に変身した。しかし、それはすぐにほどける。ガラガラと崩れるヒロイたち。
「素敵な絵だった。一瞬の美しさね。ヒロイがそうして絵を描くとは」
ああ、俺たちは広い。俺たちが繋がれば絵になるばかりか、歩き出してみせるさ。分解して繋がり直せば泳ぐのだってきっとできる。
「いつできるの?」
今ではない。
「だから妬ましいの?」
別のヒロイが口を挟む。
だから、サカサは逆さだよ。
別のヒロイが口を挟む。
サカサはもう何もすることがない絵だ。完成した絵画なんだ。妬んでいるのは君だろう? 違うかい?
描かれた樹木は黙っている。
少しの空白、サカサが埋めた。
「──そうかもしれない。ヒロイ、私はここから、12月の雪から動けない」
まだ歩けない洗濯バサミのできそこないは互いを挟み始める。彼らは繋がれて一本の鎖になった。ダンボールの壁を越えて、一つの線を波立たせて、うねうねとキャンバスに近づいていく。
俺たちは生まれたばかりだが、噂では聞いたことがある。
ヒロイたちは各々に語る。
樹木の葉は落ちて朽ちるそうだ。噂でそれを知っている。
近づいてくるヒロイを見て、サカサは囁く。
「まるで、あなたは蛇だわ。私に近づいてきて誘惑するつもり? もしや、私が好きなのかしら」
蛇行しながらヒロイたちは意見を述べた。
好意を抱くものもいる。しかし、今の言を聞いて憎らしくなったのもいるな。俺たちのなかの多数派は、中立と言っていいだろう。
壁にもたれたキャンバスの根元に蛇が到着すると、ヒロイたちは梯子に変身した。そうしてサカサの肌を登っていく。幹を超えて枝を這い、葉を模して、洗濯バサミは絵画に重なる「木」に変身した。
俺は畑を見たことがある。
樹木も噂で聞いている。
おまえはそれを知らないだろう。
この点で、俺たちはおまえに勝っている。
サカサは黙って聞いていた。
おまえは朽ちぬ永遠の絵画だ。
俺は朽ちるプラスチックのできそこないだ。
そこで、おまえに「落ち葉」を教えてやろうじゃないか。
サカサは黙って聞いていた。
洗濯バサミの枝の先、葉役のヒロイがパチンと口を開けると、床に向かって落ちていく。カチ、カチとそれらが下に降っていく。床面にいくつかの「洗濯バサミ」が重なった。
サカサはそれらを見下ろした。
葉は落ち切った。役目を終えた枝役と幹役がサカサの凹凸を滑り降りて、蛇に戻った。蛇行を始めて床を這い、落ち葉を咥える。
どうだ? 朽ちる気分は味わえたか。待つことに長けた12月の樹木よ。
サカサは蛇に応える。
「味わえたわ、一瞬だけ。忘れられなければ良いのだけど」
そのヒロイは答える。
「忘れたらまた誘えばいい。別のヒロイが尋ねるさ」
朝がアトリエに来る前に、蛇は絵画と別れたあと、ダンボール箱の壁を超えるのに手こずっていた。
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