雷舞ノ巫女(ライブノミコ)オロチ編第9話「魔法使いは、扉をくぐる」
【物語あらすじ】
「またやって」
姫宮瑠璃は、自分からそう言うようになった。
大きな舞台。光。歓声。自分の名前を呼ぶ声。
それは、ただのイメージトレーニングのはずだった。
目を閉じれば、少しだけ未来の自分を見られる。
そして、目を開けばいつもの自分へ戻る。
瑠璃はそう思っていた。
けれど。
夢の中で舞台に立っている間、現実の身体まで眠っているとは限らなかった。
***
「今日もやろ」
それが、いつの間にか瑠璃の方から言う言葉になっていた。
最初は数秒だった。
光の中へ立ち、観客に名前を呼ばれたところで終わった。
二度目は、ステージの中央まで歩けた。
三度目には、マイクを握った。
その次には、イントロが流れた。
毎回、本当に少しずつだったが、夢の中の舞台は長くなっていた。
「昨日より長かったやろ?」
ベッドへ仰向けになった瑠璃が言う。
『測っていません』
「絶対うそや。あんた、こういうの全部測ってそうやもん」
『必要であれば測ります』
「ほら。測れるんやん」
瑠璃は笑った。
夜。
部屋の明かりは消してある。
窓の外には東京の街の光がぼんやり浮かび、机の上には学校の教科書と、神社から持ち帰った小さな鈴が置かれていた。
「今日はどこまで行ける?」
『あなた次第です』
「一曲ぐらい歌わせてや」
『できれば』
「そこ確約してくれへんの?」
『未来は確約できません』
「イメトレやのに未来扱いなんや」
瑠璃は枕へ頭を沈めた。
最初ほど警戒しなくなっている自分に、もう気づいていなかった。
「ほな、魔法使いさん」
『違います』
「細かいなあ」
『始めます』
瑠璃は目を閉じた。
部屋の音が、ゆっくり遠ざかっていった。
***
光が降ってきた。
瑠璃はステージの袖に立っている。
心臓が速い。
けれど、怖くはなかった。
向こう側には大きな客席が広がっている。
暗い海の上で、何千もの光が揺れていた。
「瑠璃!」
誰かが名前を呼ぶ。
また別の場所から。
「瑠璃ー!」
瑠璃は思わず笑った。
「今日、めっちゃおるやん」
袖の向こうで誰かが手を上げた。
合図。
イントロが流れる。
瑠璃はステージへ出た。
歓声が身体を包む。
足が自然に前へ出る。
昨日より軽い。
マイクを上げ、歌い始める。
自分でも驚くほど、声が出た。
「……え」
一瞬だけ戸惑ったが、それ以上に嬉しかった。
次のフレーズを歌う。
客席から歓声が返る。
名前。光。
瑠璃は夢中になって歌った。
***
現実の部屋で。
閉じていた瑠璃の瞼が、静かに開いた。
ベッドの上で、少女の右手が持ち上がる。
指を一本ずつ曲げる。開く。また閉じる。
ヤマタノオロチは、初めて人間の身体を内側から動かしていた。
呼吸。脈。関節。重心。
ひとつずつ確かめる。
ゆっくり身体を起こし、床へ足を下ろす。
立ち上がった瞬間、身体がわずかに揺れた。
すぐに修正する。
一歩。二歩。三歩。
瑠璃が二週間かけて繰り返したことが、身体には残っていた。
足裏へ体重を乗せる位置。
軸を崩さずに歩く感覚。
音を立てない足運び。
動く前に、一拍待つこと。
教えられてはいない。
説明もされていない。
それでも身体は知っていた。
アメノウズメが残したものを。
『面白い』
今度は、瑠璃の口から声が出た。
瑠璃の声。
けれど、瑠璃ではない声音。
鏡の前へ立つ。
そこには十六歳の少女がいた。
肩までの髪。細い身体。小さな手。
かつての自分とは、あまりにも違う。
山を越えるほどの巨体もない。
八つの首もない。尾も、牙もない。
しかし。
手がある。声がある。足がある。
そして。
この身体なら。
名前を呼ばれることができる。
オロチは鏡の中の少女をしばらく見た。
やがて、部屋を出た。
***
瑠璃は夢の中で歌っていた。
何も知らずに。楽しそうに。
観客へ手を振っている。
一方、現実の瑠璃の身体は、夜の道を歩いていた。
最初は確認するようだった足取りも、歩くほど自然になっていく。
神社へ着く頃には、ほとんど違和感がなくなっていた。
鳥居の前で、足が止まる。
オロチが顔を上げた。
境内の奥に、一人の女が立っていた。
長い髪。腰の鈴。
アメノウズメノミコト。
ウズメは、すぐに気づいた。
姿は瑠璃。
顔も瑠璃。
声も、おそらく瑠璃。
それでも違う。
立ち方が違う。
呼吸が違う。
人を見る時の間が違う。
何より。
瑠璃は、こんなふうに人を測る目をしない。
ウズメの笑みが消えた。
「……その気配」
瑠璃の身体が止まる。
「その瞳」
ウズメが静かに目を細めた。
「まさか、ヤマタノオロチどすか」
少女の口元が、わずかに上がった。
『初めまして』
少し考えてから続ける。
『というのは、違いますか。アメノウズメ』
***
夜の風が境内を抜けていった。
ウズメは動かない。
「あの子は?」
『夢を見ています』
「夢?」
『本人が望んだ夢です。大きな舞台に立ち、歌っています』
「……」
『幸福そうですよ』
ウズメの指先が、わずかに動いた。
「瑠璃はんは、あんたさんが今、その身体を使ってること知ってはります?」
『いいえ』
返事は早かった。
ウズメは少しだけ目を伏せ、またオロチを見る。
「ほな、借りてるとは言いまへんな」
『言葉の定義の問題ですか?』
「違いますえ。人の身体の話どす」
オロチは答えなかった。
「どうやって入らはったんどす?」
『あなたが開いた道を使いました』
ウズメの目が、ほんのわずかに揺れた。
『優れた接続でした』
「褒めてもろても、嬉しないどすなあ」
『褒めています』
「そうどすか」
オロチは本気だった。
だから余計に、ウズメの表情は変わらない。
『あなたの稽古も、無駄ではありません』
「……」
『この少女は、二週間前より身体の使い方を覚えている』
オロチは瑠璃の手を静かに開いた。
重心を少し移し、足の向きを変える。
身体は滑らかについてきた。
『なるほど。あなたが二週間かけて整えていたのは、これですか』
ウズメの視線が、その動きを追う。
『足の運びも、呼吸も、重心の移し方も、この少女の身体にはきちんと残っている』
オロチは自分のものではない手を見る。
『よく動きます』
ウズメの瞳から、最後の柔らかさが消えた。
「瑠璃はんは、道具やありまへんえ」
『道具とは言っていません』
「せやったら、そない品定めするように見んといておくれやす」
『あなた方は、この少女を“器”と呼んでいる』
ウズメはゆっくり首を横へ振った。
「器いうても、入れもんやありまへん」
『では、何です?』
「道どす。神と人が、互いに届くための」
オロチは少し考えた。
『ならば、私もその道を通った。それだけでは?』
「勝手にですやろ」
『はい』
迷いのない返事だった。
ウズメはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。
「ほんま、ようできた蛇どすなあ」
『褒め言葉ですか』
「どうやろなあ」
オロチは答えを求めなかった。
代わりに、瑠璃の身体をあらためて見下ろす。
『一つ、分からないことがあります』
「なんどす?」
『なぜ、この少女を選んだのですか』
『歌唱能力は高くない。身体能力も平均的。リズムにも突出したものはない』
オロチが一つずつ並べても、ウズメは否定しなかった。
「そうどすなあ」
『もっと優れた人間はいる』
「おるでしょうなあ」
『では、選択を間違えたのでは?』
その時、ウズメが笑った。
いつもの、柔らかくつかみどころのない笑いだった。
「なんでそうなるんどす?」
『優れた能力を持つ者を選ぶべきでしょう』
「それやったら、歌の上手い順、踊りの上手い順、人気の出そうな順に並べて決めたらよろしいやん」
ウズメは軽く肩をすくめた。
「神様、いりまへんなあ」
オロチは少し黙った。
『では、あなたは何を見ているのですか』
ウズメは瑠璃を見る。
何かを言いかけて、やめた。
「今のあんたさんには、まだ分からへんやろなあ」
『説明してください』
「嫌どす」
『なぜ?』
「教えたないから」
『非合理的ですね』
「神様いうんは、大体そういうもんどすえ」
オロチの口元が、ほんの少し動いた。
『あなたは面白い神ですね』
「よう言われます」
しばらく、静かな空気が続いた。
だからこそ、次の一言は鋭かった。
『遅い』
ウズメの笑みが止まる。
『あなたの方法は正しい。この少女の身体も確かに変わっています。ですが、人間の時間は短い』
十六歳。十七歳。十八歳。
人間には、戻らない時間がある。
『この少女が欲しがっているのは、“いつか”ではありません』
ウズメは黙っている。
『今です』
以前、瑠璃自身が答えた言葉だった。
『私は、それを与えられる』
「瑠璃はんも、そう思ってはるんどすか?」
『彼女は自分から、もう一度を望みました』
「舞台を?」
『はい』
「それだけ?」
そこで初めて、オロチの返事が遅れた。
ウズメは、その小さな間を見逃さなかった。
「全部、話しました?」
『いずれ』
「瑠璃はんには“今が大事や”言うて、自分の話は、いずれどすか」
ウズメは穏やかなままオロチを見る。
オロチは答えなかった。
夜の風が境内を抜けていく。
ウズメは、また笑っていた。
けれど、その瞬間から場の空気が変わった。
怒鳴ったわけではない。
構えたわけでも、腰の鈴へ手をかけたわけでもない。
それでも、先ほどまでオロチの方へ傾いていた夜の中心が、いつの間にかウズメの足元へ戻っていた。
オロチが初めて、彼女を測るのではなく真正面から見る。
「それ以上、瑠璃はんのことを勝手に値踏みせんといてもらえます?」
ウズメの声は穏やかだった。
「うちは、よう笑う神どす」
その笑みさえ、まだ消えていない。
「せやけど、何されても笑うてる神や思わんといてください」
二人の間に、しばらく言葉はなかった。
やがてオロチが、わずかに目を細める。
『……なるほど』
その一言には、先ほどまでとは違う響きがあった。
アメノウズメ。
芸能の神。
それだけでは説明できない何かを、初めて見たようだった。
「道を使われたんは、うちの失敗かもしれまへん」
『認めるのですか』
「そこはな」
ウズメは瑠璃を見る。
「せやけど、瑠璃はんを選んだことは、間違いやありまへん」
今度は、オロチもすぐには返さなかった。
しばらくして、瑠璃の口から静かな声が出る。
『今夜は、話をしに来ただけです』
ウズメが視線を戻す。
『あなたが、この少女の何を見たのか。少し興味がありました』
「分かりました?」
オロチは、ほんの少し考えた。
『いいえ』
その答えに、ウズメの眉がわずかに動く。
『だから、もう少し見ます』
「瑠璃はんを?」
『はい』
答えに迷いはない。
『この少女は舞台を望んでいる。私は、この身体で舞台というものを知りたい』
少女の手が、自分の胸元へ触れる。
『今のところ、私たちは同じ場所を見ています』
「一緒にせんといておくれやす」
『本人がそう言えば、考えます』
「そのためには、まず全部話してもらわんと困りますなあ」
『いずれ』
「また、それどすか」
ウズメが呆れたように笑った。
オロチも、それ以上は答えなかった。
『では、今夜はここまでにしましょう』
先ほどまで表にあった気配が、ゆっくりと身体の奥へ退いていく。
瞼が閉じる直前、オロチは最後にウズメを見た。
『また会いましょう。アメノウズメ』
身体から力が抜ける。
ウズメがすぐに踏み込み、瑠璃を受け止めた。
「次は、瑠璃はん本人も交えて話したいもんどすなあ」
返事はなかった。
腕の中に残ったのは、静かに眠る十六歳の少女だった。
その顔は穏やかだった。
夢の中では、まだ舞台に立っているのだろう。
ウズメは瑠璃を抱いたまま、しばらく何も言わなかった。
***
翌朝。
瑠璃は自分のベッドで目を覚ました。
「……ん」
身体が重い。
特に脚が妙にだるい。
「なんで筋肉痛なん……」
昨夜、夢の中ではかなり長く歌った。
そのせいだろうか。
そんなはずはないのに。
瑠璃は深く考えなかった。
それより。
思い出しただけで、顔が緩んだ。
舞台。光。歓声。自分の名前。
昨日より長かった。
昨日より歌えた。
瑠璃は枕へ顔を埋めながら呼びかける。
「なあ」
しばらくして。
『はい』
声が返ってきた。
「今日もやろ」
『学校があります』
「夜!」
『そうですか』
「次、一曲最後までいける?」
『分かりません』
「そこ頑張ってや、魔法使い」
『私は魔法使いではありません』
瑠璃は笑った。
「ほんま細かいなあ」
彼女は、何も知らない。
昨夜、自分の身体が部屋を出たことも。
夜の神社まで歩いたことも。
アメノウズメとヤマタノオロチが向かい合ったことも。
知らない。
ただ、次の舞台を楽しみにしていた。
そして神社では。
ウズメが一人、神楽殿の前に立っていた。
腰から外した鈴を掌へ載せる。
朝の風が境内を抜けていく。
それでも。
鈴は鳴らなかった。
ウズメはしばらく、その鈴を見つめていた。
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