「唯一無二になりたい」と思っている時点で、まだ他人を見ているーー個性を意識するほど、自分から遠ざかっていくという皮肉
🪞 「唯一無二かどうか」を、最近まったく考えていなかった
少し前、ふと気づいたことがあった。
私、最近「自分は唯一無二か」なんて、まったく考えていない、と。
考えていないというより、もっと正確に言えば、
そんな問いがあったこと自体を、ほとんど忘れていた。
以前だったら、もう少しあった気がする。
私にしかないものは何だろう。
他の人との違いは何だろう。
私だからできることは何だろう。
どうすれば、その他大勢に埋もれないんだろう。
別に、自分には価値がないと思っていたわけではない。
誰かになりたいと思っていたわけでもない。
それでもどこかには、
「私はちゃんと、私だけの何かを持っているだろうか」
と確認する視点があったのだと思う。
「自分軸」かどうか、もこれに該当する。
でも、最近はそれがない。
完全に忘れるほどに。
自分の仕事をして。
面白いと思ったことを考えて。
やってみたいことを思いついたら動いて。
好きなものは好きだと思い、
嫌なものには普通に「嫌だな」と思う。
誰かと話していて面白ければ近づくし、
つまらなければ、無理に合わせようとも思わない。
何かを作るときも、
「これは他の人と違うだろうか」
より、
「私はこれを面白いと思うか」
の方が先にある。
気づけば、ずっと自分の世界を見ていた。
だからたぶん、
他人と違うかどうかを確認する必要そのものが、なくなっていた。
そこで、ちょっと興味深いと思った。
私は以前より「唯一無二」ではなくなったのだろうか。
たぶん、逆だ。
むしろ、自分が唯一無二かどうかを気にしなくなっていたこと自体が、
以前とは何かが変わった証拠なのだと思う。
「私は特別だろうか」
「ちゃんと人とは違うだろうか」
そういう問いには、必ず比較対象がいる。
自分の価値を確かめるために、
どこかで他人を見なければ成立しない。
でも今は、その確認作業そのものが消えている。
特別だから安心したわけでもない。
唯一無二になれたという認定を、どこかからもらったわけでもない。
ただ、
自分が面白いと思うものを追いかけていたら、
そんなことを確認する必要がなくなっていた。
それはもしかすると、
「私は特別か」
という問いの答えを得たのではなく、
知らぬ間にその問い自体が必要ではない場所にいた
ということなのかもしれない。
「私は特別か」を確認しなくなったとき、自分はようやく比較の外に出ていた。
🎯 唯一無二を目指すほど、基準は他人になる
「人と違う自分になりたい」
これは一見すると、とても自分らしさを求めている言葉に見える。
誰かの真似ではなく、自分だけのものを持ちたい。
その他大勢に埋もれず、自分ならではの価値を出したい。
その感覚自体は、よくわかる。
とりわけ若い頃には。
でも、少し構造を変えて見ると、不思議なことに気づく。
「人と違うかどうか」を確認するためには、ずっと人を見ていなければならない。
誰かがまだやっていないことは何か。
誰かより尖っている部分はどこか。
他の人にはない特徴は何か。
誰とも被っていないものは何か。
つまり、
「私は私でありたい」
と言いながら、
その「私」を確かめるための基準は、ずっと外側にある。
これは少し面白い矛盾だと思う。
自分らしくなろうとしているはずなのに、
「他人と違う」という条件がついた瞬間、
他人の存在なしには、自分らしさを確認できなくなる。
これは、仕事やブランディングの世界でもよく起きる。
差別化しなければ。
ポジションを取らなければ。
独自性を出さなければ。
競合とは違うことを言わなければ。
もちろん、事業として市場を見ることは必要だ。
誰に何を届けるのかを考えることも、
他との違いを整理することも必要になる。
でも、それが強くなりすぎると、
「私は何を面白いと思っているのか」
より先に、
「市場からどう見えるか」
を考えるようになる。
本当はそれほど興味もないのに、
珍しいから選ぶ。
本当はそんな言い方をしたくないのに、
目立つから強い言葉を使う。
本当はもっと複雑なことを考えているのに、
「このキャラクターの方がわかりやすいから」と自分を単純化する。
そうやって「違い」を作り続けていくと、
不思議なことに、かえってどこかで見たようなものになっていく。
尖っている。
個性的に見える。
言葉も強い。
なのに、なぜか似ている。
それはたぶん、
起点が同じだからだ。
「他人と違わなければ」というところから始まっている。
人との差分によって自分を作れば、
その形は違って見えても、
基準そのものは他人の中にある。
逆に、
誰かと違うかどうかとは関係なく、
自分は何が好きなのか。
何に違和感があるのか。
何を美しいと思うのか。
何を面白いと思うのか。
何なら何時間でも考えていられるのか。
そこから始めたものは、
最初から「違い」を作る必要がない。
結果として誰かと似ることがあってもいいし、
似ていないこともある。
そこはもう、本質ではない。
「違う私」を作るのではなく、
ただ「私」の方を見ている。
唯一無二というものがあるとすれば、
案外その先にしか生まれないのかもしれない。
「人と違う」を目指している限り、自分の基準はまだ人の中にある。
🧩 個性は、作るものではなく「削らなかったもの」
本当の個性というのは、
何か珍しいものを足して作るものではないのだと思う。
変わった趣味を持つこと。
特別な肩書きをつけること。
強いキャラクターを作ること。
あえて人と違うことを言うこと。
もちろん、それらが本当にその人から出てきたものなら、それも個性になる。
でも、
「個性的に見えるために足したもの」
は、どこかで無理が出る。
なぜなら、それは本来の自分というより、
外から見たときの印象を設計したものだからだ。
私が最近思うのは、
個性というのはむしろ逆なのではないか、ということ。
何かを足すのではなく、
自分の中にあるものを、必要以上に削らなかった結果として残る形。
本当は好きなのに、「こんなの普通すぎるかな」と引っ込めない。
嫌だと思ったのに、「みんなやっているから」という理由だけで飲み込まない。
本当はもっと速く進みたいのに、
周りが不安になるからというだけで、自分の速度を落とさない。
面白いと思ったことを、「理解されないかもしれない」と最初から削らない。
そういうことを一つずつやめていくと、
当然、人によって残るものは違ってくる。
私は、物事をかなり深く考える方だ。
一つの出来事から構造を見たり、
その奥にある原理まで考えたりするのが好きだ。
でも同時に、
見た目まで難しそうでいたいわけではないし、
話すときには普通にふざけるし、
面白いことも好き。
抽象的なことを考える一方で、
現実が動かなければ意味がないとも思っている。
だから、考えるだけではなく、
実際に形にするし、売るし、場も作る。
でも私は、
「深く考える人」
「軽やかな人」
「面白い人」
「現実を動かす人」
と、それぞれの要素を管理して組み合わせているわけではない。
ただ全部、普通に私の中にある。
外から見ると、それが一つの人間の中に同居していること自体が、
その人らしさとして見えるのかもしれない。
そして、たぶん人は本来みんなそうなのだと思う。
人間は、本当はもっと複雑だ。
優しいけれど、強いところもある。
繊細だけれど、大胆なところもある。
合理的だけれど、直感で決めることもある。
静かな時間が好きだけれど、
人と大笑いするのも好きだったりする。
そういう矛盾や複雑さを、「このキャラでいこう」と整理しすぎると、人はむしろ薄くなっていく。
わかりやすくはなる。
でも、生きている感じは減っていく。
個性というのは、
きれいに一言で説明できるものではなくていい。
自分の中にある複数のものを削らずに持っているからこそ、
その組み合わせは自然と他の誰とも違っていく。
だから、本当に自分らしくなりたいなら、
何を足せば個性的になるかではなく、
自分は何を削ってきたのかを見た方がいいのかもしれない。
普通だからと削ったもの。
理解されないと思って隠したもの。
周りに合わせるために遅くしたもの。
「こんな自分ではダメだ」と切り落としてきたもの。
それらを少しずつ戻していった先に、
作ったキャラクターではない、
その人にしかない複雑な形が残る。
個性とは、何かを足して作るものではなく、自分から削らなかったものの総体なのだと思う。
🦢 唯一無二は、自分が名乗るものではない
たぶん、唯一無二というものは、
自分で名乗る必要がない。
「私は特別です」
「私は他の人とは違います」
そう証明しなくてもいい。
ただ、
自分の感覚で選ぶ。
自分の判断で動く。
好きなものは好きだと認める。
嫌なものは嫌だと引き受ける。
自分の速度を、必要以上に落とさない。
誰かに理解されるためだけに、
自分をわかりやすく薄めない。
そういうことを繰り返していけばいいのだと思う。
すると結果として、
同じ人はいなくなる。
そもそも、人は最初からかなり違う。
育ってきた環境も違う。
経験してきたことも違う。
感性も違う。
身体も違う。
何を美しいと思うかも、
何を嫌だと思うかも、
何に心が動くかも違う。
判断基準も、
歩いてきた速度も、
出会ってきた人も違う。
それだけ違う材料を持っているのだから、
本来、そのまま生きていけば、
自然と違う形になるはずだ。
なのに私たちは途中で、
「普通はこうする」
「こう見えた方がいい」
「このくらいがちょうどいい」
「ここまで言うと変に思われる」
と、自分を少しずつ均していく。
削って、丸めて、薄めて。
その結果、
みんな似た場所に寄っていく。
だからきっと、
個性を作る必要があるのではなく、
均してきた自分を、少しずつ元に戻していけばいいだけなのかもしれない。
最近私は、
「唯一無二」という言葉そのものを、ほとんど思い出さなくなっていた。
それは、
「ついに私は特別な存在になれた」
と思っているからではない。
最早どうでもいいのだ。
特別かどうかを、
もう確認する必要がない。
誰かと比べて違っているか。
ちゃんと独自性があるか。
埋もれていないか。
そういうことより、
今日、自分が何を面白いと思っているか。
何を作りたいか。
誰といたいか。
どこへ行きたいか。
そちらの方が、ずっと重要になった。
考えてみれば、
「唯一無二になる」というのは、
最初から少しおかしな目標だったのかもしれない。
自分とは別の何かになって、
ようやく特別になるわけではない。
自分の人生を、
自分の感覚で生きる。
必要以上に自分を削らない。
その結果として残った形を見て、
あとから誰かが、
「あの人は他にいないよね」
と言うことはあるかもしれない。
でも、その頃には本人はきっと、
そんなことをあまり気にしていない。
唯一無二は、目標地点ではなかった。
唯一無二とは、目指して手に入れる属性ではなく、自分を削らずに生きた結果として残る形。
こうして、自分を削らずに、
自分の感覚を基準に生きていくこと。
Harmoniousで扱っているのも、
結局はこのことなのだと思っています。
誰かの正解に合わせて、
自分を整えるのではなく、
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Harmoniousは、
誰かになるためではなく、
自分自身の生命に、
もう一度、あるいは人生で初めて還っていくための場所です。
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