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美談だけでは、その人の人生は語れないーー温かい記憶も、苦しかった現実も、どちらもその人が生きた時間

A life is more than a beautiful story.

🕯️ 人が亡くなると、その人生は「きれいな物語」になりやすい


叔父の葬儀では、いろいろな昔話が出た。

「こんな子だった」
「よく可愛がっていた」
「昔はこうだった」

亡くなった人を囲むと、
その人との温かい記憶が、自然と集まってくる。

それ自体は、とてもよく分かる。

葬儀の場で、わざわざ嫌だったことを掘り返したい人はいない。

残された人たちが、
その人との良かった時間を思い出すことにも、
きっと意味がある。

私自身も、叔父の顔を見ながら、
子どもの頃に一緒に遊んだことを思い出した。

だから、
温かい記憶が語られること自体に違和感があったわけではない。

でも私は、その場にいながら、
もう一つ別のことも感じていた。

人が亡くなると、
その人の人生は少しずつ、
ひとつの整った物語
へ編集されていくことがある。

愛されていた人。

可愛がられていた人。

家族に大切にされていた人。

苦労はあったけれど、
最後はみんなに囲まれて見送られた人。

もちろん、
それもその人の人生の一部なのだと思う。

でも、
人生は本当は、そんなに一枚ではない。

叔父には知的障害があった。

今よりずっと荒っぽかった時代、
子どもの頃には、叔父自身がいじめられたこともあった。

そのことで、
弟である父まで一緒にからかわれたり、
嫌な思いをしたこともあった。

そして大人になってからは、
父が長い年月、
叔父の生活を支える責任を引き受けてきた。

そこには、
「家族に可愛がられていた」
という言葉だけでは収まらない時間がある。

温かさもあった。
優しさもあった。

でも同時に、
理不尽さも、
負担も、
苦しかった時間もあった。

私は、
亡くなった人のことを悪く言いたいわけではない。

むしろ、
その人の人生を大切に扱いたいからこそ、
綺麗な部分だけを残して、
分かりやすい物語にまとめたくないのだと思う。

亡くなったからといって、
人生そのものまで綺麗に整うわけではない。

矛盾したままでも、
複雑なままでも、
それがその人の生きた現実だったのだから。

人が亡くなったからといって、その人生まで美しい一つの物語になるわけではない。

温かい記憶も、苦しかった現実も、どちらもその人の人生の一部だった。


🧩 「可愛がっていた」という記憶だけでは見えないもの

葬儀のとき、
親族の一人が、
「うちの母ちゃんが、よく可愛がってたよ」
と話してくれた。

叔父には知的障害があったから、
「可哀想だと思って、よく可愛がっていた」
と言った。

さらにその流れで、
叔父は生まれたときから障害があったのではなく、
幼い頃の注射をきっかけにそうなったらしい、
という話まで初めて出てきた。

父自身も知らなかった話だった。

何十年も家族の中にいた人について、
亡くなってから初めて知ることがある。

それだけでも、
人の人生というのは、
近くにいたからといって全部分かっているわけではないのだと思った。

同じ家族でも、
知っている断片はそれぞれ違う。

誰かが見ていた姿と、
別の誰かが見ていた姿も違う。

一人の人生は、
そういう複数の記憶の重なりでできているのかもしれない。

ただ同時に、
「よく可愛がっていた」
という話を聞きながら、
私は別のことも思い出していた。

父が何度か話していた、
叔父が子どもの頃にいじめられていたこと。
そして、
弟である父自身も、
叔父のことで一緒にからかわれたり、
いじめられたりしていたこと。

叔父を可愛がっていた人がいたこと。
父たちが苦しい思いをしていたこと。

どちらかが嘘なのではない。

両方あったのだと思う。

だからこそ、
一方だけを取り出して、
「大切にされていた人だった」
とまとめてしまうと、
何か大切なものが抜け落ちる。

その人の体験の半分がごっそり落ちてしまう気がした。

人は、
ある場所では大切にされ、
別の場所では傷つけられることがある。

ある人にとっては愛情深い関係でも、
別の人にとっては負担や緊張を伴う関係であることもある。

そういう複数の現実が、
同時に存在している。

私は今回、
一つの人生を理解するというのは、
矛盾を消して整えることではなく、
矛盾したまま全部そこに置いておくこと
なのかもしれないと思った。

「可愛がられていた」
という記憶も、
その時代に確かにあった苦しさも、
どちらも削らずに見る。

その方が、
一人の人間が生きた時間を、
よりそのまま受け取れる気がする。

「大切にされていた」という記憶が本物でも、それだけでその人の人生全体を説明することはできない。

一つの人生には、矛盾するように見える現実が同時に存在している。


🤍 人を尊重することと、その人生を美化することは違う


私は、叔父の葬儀を暗いものにしたいわけではない。

実際、叔父の眠っているような安らかな顔を見たとき、
私の中にあったのは寂しさだけではなく、
とても温かい感覚だった。

子どもの頃、一緒に塗り絵をしたことも思い出した。

そして、率直に、
「お疲れさま」と思った。

長い人生を終えた人に対して、
その言葉が自然に浮かんできた。

だから私は、
叔父の人生の苦しかった部分だけを見たいわけでもない。

ただ、
その人の人生を尊重することと、
綺麗な話に編集することは、
やはり別なのだと思う。

良かったことは、良かった。

愛された時間もあった。

楽しかったこともあった。

苦しかった時間もあった。

理不尽だったこともあった。

誰かに負担が偏ったこともあった。

その全部が、そのままあっていい。

以前書いた「静謐」の位置から見れば、

そこにある体験は、
どちらかだけが価値のあるものなのではない。

喜びも、
苦しさも、
優しさも、
理不尽さも、
その人がこの世界で実際に通った体験として、
等しくそこに置いておくことができる。

だから、
人の人生を本当に見るというのは、
良いところだけを残すことではないのだと思う。

矛盾も、
不公平も、
優しさも、
未熟さも、
全部を同じ場所に置いたまま見る。

それで初めて、
一人の人間が生きた時間を、
都合よく縮めずに受け取れる気がする。

私は、美談にしたくないから、
叔父の人生を粗末に扱っているのではない。

むしろ逆だ。
一人の人間の人生を、
「いい話」に収まる程度のものに小さくしたくない。

その人が実際に生きた現実を、
あとから都合よく削ったり、
綺麗に整えたりせずに見る。

私にとっては、
それがその人の人生への敬意なのだと思う。

そして次の記事では、
その葬儀が結果として、とても温かい場になったことから、
美しい場は、美しくしようとして作ったものではなかった
という話へ進もうと思う。

人を尊重することと、その人生を美化することは違う。
美しいことも、苦しかったことも、矛盾したまま置いておくこと。
それが、その人の人生を本当に見ることなのだと思う。


私たちは、
誰かが語る物語や、
世の中で「正しい」とされている見方より先に、

自分の身体や感覚を通して、
現実の中で何かを受け取っています。

それを無理に良いものへ変換しなくていい。

誰かと同じ答えにする必要もない。

大切なのは、
自分には何が見えているのか。

何を大切にしたいのか。

そして、
自分の生命をどこへ使い、
どんな世界を創りたいのか。

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正しい答えを教えることではなく、

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