「普通にいる。でも私は嫌い」で終わりにしていいーー「嫌い」は、攻撃ではなく配置を決めるための情報
They can exist. I don’t have to choose them.
🌿 「そんな人、普通にいるよ」と言われても、嫌なものは嫌だった
ここ数回の記事を書きながら、
自分が、人の何に強く反応するのかが、
かなりはっきりしてきた。
できないことではない。
未熟なことでもない。
間違えることでもない。
知らないことでもない。
人は失敗するし、
判断を誤ることもある。
自分では分かっているつもりでも、
実際には全然できていないことだってある。
そこ自体は、構わないし、反応するわけでもない。
私が嫌なのは、
自分が生じさせた現実を、自分のものとして引き受けない態度
なのだと思う。
自分では、
「人を支えている」
「人を育てている」
と思っているのに、
実際には周囲がその人を支えている。
自分で選んで始めたことなのに、
結果が悪くなると、
いつの間にか自分が被害を受けた側へ移っている。
長い間誰かに負担をかけても、
その影響がどこまで広がったのかまでは見ない。
「家族だから」
「みんなで支えてきた」
と言いながら、
現実の負担は特定の一人に集中している。
こういうことは、
たぶん世の中では珍しくない。
人は誰でも、
自分に都合のいい見方をすることがある。
自分の弱さを直視したくないこともある。
責任を全部引き受けるより、
少し外へ置いた方が楽なこともある。
だから、
「人間なんてそんなものだよ」
と言われれば、
それもまあ分かる。
実際、そういう人は普通にいるのだと思う。
でも、
普通に存在することと、私が好きになれることは別だ。
珍しくないからといって、
私の違和感まで消えるわけではない。
多くの人がやっているからといって、
「じゃあ仕方ないね」
と、自分の感覚を書き換える必要もない。
私は別に、
「そんな人間が存在してはいけない」
と言いたいわけではない。
いる。
普通にいる。
そういう人には、
そういう人の人生がある。
そのうえで、
私は嫌い。
それでいいのだと思う。
世の中に存在することを認めることと、
自分の価値観までそこへ合わせることは別なのだから。
世の中に普通に存在することと、私がそれを受け入れたいと思うことは別だった。
「よくあること」は、私の違和感を無効にする理由にはならない。
🧩 理解できることと、受け入れることも違う
私は、人がそうなる背景を考えること自体はわりとする方ではあると思う。
なぜ、その自己像を持つようになったのか。
なぜ、自分が生じさせた結果をそのまま見られないのか。
なぜ、責任を外へ置くのか。
なぜ、都合の悪い現実から目を逸らすのか。
そこには、
家族構造があるかもしれない。
育った環境があるかもしれない。
傷つかないために身につけた防衛があるかもしれない。
恐れや、
能力の限界や、
それまで生き延びるために必要だった考え方があるかもしれない。
実際、
その人の背景を知ることで、
「なるほど、だからこうなるのか」
と腑に落ちることはある。
表面だけを見ていると、
ただ理解不能だった振る舞いにも、
その人なりの理由が見えてくることがある。
私は、そうやって構造を見ること自体はよくする。
でも、ここでも一つ、
混ぜなくていいものがある。
理解することと、受け入れることは別だ。
事情があることと、
その結果を周囲が引き受け続けてることは別。
傷があることと、
他人を傷つけていいことも別。
本人なりの善意があることと、
現実に生じた結果が良いことも別。
「そうならざるを得なかった理由」が分かったとしても、
その理由によって、
現実に起きたことまで消えるわけではない。
背景は、
その人を理解するための情報にはなる。
でも、
起きたことを帳消しにする免罪符にはならない。
理由が分かれば、
必要以上に憎まずに済むことはある。
「この人は、こういう構造の中でこうなったのだな」
と、少し離れた場所から見ることもできる。
でも、
だからといって、
その人を近くに置かなければならないわけではない。
信頼を預けなければならないわけでもない。
何度でも同じことを受け入れなければならないわけでもない。
私は、人の背景を見る力を、
何でも許容するために使いたいわけではない
のだと思う。
理解できる。
それでも、嫌い。
事情は分かる。
それでも、近くには置かない。
その二つは、矛盾しない。
むしろ、
相手を必要以上に悪者にせず、
それでも自分の判断は自分で持つ。
その方が、
私にはずっと自然に感じられる。
人がそうなる理由を理解することと、その人の振る舞いを受け入れることは別だ。
事情は説明にはなっても、結果を帳消しにはしない。
👑 他人に、私と同じ解像度で省みることを要求しない
一方で、
ここには私自身が気をつけたい点もある。
私は、
現実と自己像が一致しているか。
自分が何を生じさせたのか。
誰がその負担を持っているのか。
かなり細かく見る方だと思う。
だからこそ、
「なんでそこを見ないんだろう」
と思うことも多い。
少し振り返れば分かりそうなのに、と。
誰が何を負担しているかを見れば気づけそうなのに。
なぜ、自分の中の物語だけで完結できるのだろう。
そう感じることはある。
でも、
そこで
「他人も、私と同じ解像度で自分を振り返るべきだ」
と要求し始めたら、
それは別の話になる。
私には私の基準がある。
相手には相手の現在地がある。
相手が自分を見るかどうか。
自分の矛盾に気づくかどうか。
自分が生じさせた結果を認めるかどうか。
責任を引き受けるかどうか。
そこは、その人の人生だ。
別にわざわざ伝えることではない。
「そこ、おかしいよ」
と逐一訂正して回る必要もない。
気にしないまま生きる自由も、
その人にはあるのだから。
ただし、
その自由があることと、
私がその人をどう見るかは別だ。
私は、
その人の自由を認めたまま、
「私はこれは嫌い」
と判断していい。
近くに置かないと決めてもいい。
信頼を預けないと決めてもいい。
一緒に何かをしないと決めてもいい。
他人に自分の価値観を強制しないことと、
自分の価値観を曖昧にすることは違う。
相手を変えようとしないことと、
自分の基準を下げることも違う。
私は、
他人に私と同じ見方を要求しない。
でも同時に、
自分が何を大切にする人間なのかまで、
ぼかす必要はないのだと思う。
他人に自分と同じ解像度を要求しない。
でも、そのために自分の基準まで下げる必要もない。
相手の自由と、私の判断は両立する。
🤍 「嫌い」は、攻撃ではなく配置を決めるための情報になる
以前なら、
「嫌い」という感覚には、
もう少し問題解決が必要だと思っていたかもしれない。
なぜ、こんなに引っかかるのか。
何が投影されているのか。
自分の中の何を癒す必要があるのか。
もちろん、
そうやって掘ることが必要な場合もある。
感情が強く動くとき、
その奥に自分自身の未整理なものがあることもある。
だから私は、
違和感や嫌悪感をただ正当化するのではなく、
一度は自分の側も見る。
でも、
十分に見たあとにも残る
「私はこれは嫌い」
は、
必ずしも未処理の感情ではない。
むしろ、
自分が何を大切にしているのかを教えてくれる、
価値観の情報であることもある。
私は、
自分が生じさせた現実を引き受ける人が好きだ。
言っていることと、
実際にやっていることが、
大きく乖離していない人が好きだ。
分からなければ学ぶ人。
間違えたら修正する人。
できていないなら、
できていないことを認められる人。
自分の役割を、
いつの間にか他人へ押しつけない人。
そういう人たちと、
近くで生きたい。
一緒に何かを創りたい。
ならば、
その反対にあるものに強い違和感を持つのは、
ある意味で当然なのだと思う。
そして、
「嫌い」は、相手を攻撃するものではない。
嫌いだから責める。
嫌いだから変える。
嫌いだから排除する。
そうする必要はない。
ただ、
距離や配置を決めるための情報
として使えばいい。
一緒に創るのか。
何かを任せるのか。
信頼を預けるのか。
近くに置くのか。
距離を取るのか。
自分の生命を、
どこまでそこへ使うのか。
そこを選べばいい。
「そういう人もいる」
まで分かったのなら、
その先は、
「でも私は嫌いだから、近くには置かない」
で終わっていいのだ。
それは、
相手を否定することではない。
自分の生命を、
どこへ使うかを決めることだ。
そして私は今、
その選択をすることに、
以前ほど余計な意味づけをしなくなった気がする。
嫌いなものは嫌い。
近くに置きたい人は、自分で選ぶ。
それで十分なのだと思う。
そういう人は普通にいる。
それを変える必要もない。
でも、私が嫌いだという事実まで消す必要もない。
相手を変えず、自分の基準も下げず、
自分の生命を使う場所だけを選べばいい。
私たちは、
誰かが語る物語や、
世の中で「正しい」とされている見方より先に、
自分の身体や感覚を通して、
現実の中で何かを受け取っています。
それを無理に良いものへ変換しなくていい。
誰かと同じ答えにする必要もない。
大切なのは、
自分には何が見えているのか。
何を大切にしたいのか。
そして、
自分の生命をどこへ使い、
どんな世界を創りたいのか。
Harmoniousが扱っているのは、
正しい答えを教えることではなく、
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自分の正位置から、
選び、創っていくことです。
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Harmoniousは、
誰かになるためではなく、
自分自身の生命に、
もう一度、あるいは人生で初めて還っていくための場所です。
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