謝ったからといって、許されるとは限らないーー謝罪と許しは、交換条件ではない
An apology does not guarantee forgiveness.
今月の初め、叔父が亡くなった。
叔父には知的障害があり、弟である父が、長い間その生活を支えてきた。
私自身も、実家にいた10代までは叔父と同居していた。
その後もずっと、叔父は私たち家族の生活の中にいる人だった。
ここ最近入院はしていたものの、亡くなることは誰も予期していなかった。
知らせを受けて急遽実家へ戻り、結果的に今月の半分ほどを実家で過ごすことになった。
葬儀の準備をしたり、
親族と久しぶりに会ったり、
父や母の話を聞いたり。
叔父の死そのものだけではなく、
それまで何十年も続いてきた家族の関係や、
誰が何を背負ってきたのか、
誰が何を見て、何を見ないまま生きてきたのか。
そんなものまで、一気に表へ出てくるような時間だった。
今回は、その中で私が改めて考えた、
謝罪と、責任と、許しについて
書いてみたいと思う。
🕊️ 心から謝ったとしても、「全部終わり」にはならない
叔父の通夜のとき、長年私の母に対して嫌な態度を取ってきた親族の一人が、母に謝ったそうだ。
若い頃の自分の振る舞いについて、
「本当にごめんなさい、自分が馬鹿だった」
と。
母は、
「もういいよ」
というように、その言葉を受け取っていた。
母はもともと、誰かといつまでも争い続けたい人ではない。
過去にあったことを、ずっと相手に突きつけ続けるような人でもない。
だから、その場で謝罪を受け取ったこと自体は、母らしいと思った。
その場面だけを見れば、
長い時間を経て謝罪があり、
謝られた側もそれを受け入れた。
いわゆる「良い話」に見えるかもしれない。
長年のわだかまりが、叔父の葬儀をきっかけに解けた。
そんなふうに語ることもできる。
でも、私の中に出てきたのは、
感動でも、
「これですべて良かったね」という大団円でもなかった。
むしろ最初に浮かんだのは、
母が許したからといって、私は別に許していない。
という感覚だった。
ここで重要なのは、
その人が心から謝っていなかった、と言いたいわけではない。
本当に後悔していたのかもしれない。
長い時間を経て、自分のしたことを振り返ったのだろう。
かつての意地悪でギスギスした雰囲気は無くなっていた。
謝ることにも、きっと勇気が必要だったと思う。
だから、謝罪そのものを否定したいわけではない。
ただ、
謝罪が本物であることと、その瞬間にすべての影響が帳消しになることは別だ。
率直にそう思った。
人が誰かにしたことは、
その人と相手の二人の間だけで完結するとは限らない。
家庭の空気を変えることもある。
周囲の人間に緊張を与えることもある。
子どもが、その空気の中で何年も過ごすこともある。
事実、私達はその空気の中で育った。
そして、そうやって積み重なったものは、
何十年後かの
「ごめんなさい」
という一言によって、
起きなかったことにはならない。
謝ることには、きっと意味がある。
むしろ、間違っていたと思うのなら、謝った方がいいとは思う。
でも、
謝ったことと、
相手が許すことと、
過去の影響が消えること。
この3つは、全部別のことだ。
私はあの場で、それをかなりはっきり感じていた。
心から謝ることには意味がある。
でも、謝罪が本物であることと、
それによって過去の影響が消えることは、
まったく別の話だった。
⚖️ 謝罪と許しは、交換条件ではない
「謝ったのだから、許してあげるべき」
とは、私は思わない。
謝罪には、ときどき取引のようなイメージがつきまとう。
悪いことをした。
謝った。
反省した。
だから、相手は許す。
そんな流れが、どこか当然のように扱われることがある。
でも、本来この2つは交換条件ではないはずだ。
謝罪は、
自分がしたことを、自分のものとして引き受ける行為。
許すかどうかは、影響を受けた側が決めること。
それぞれ、別の場所にある。
謝る側は、本来、許してもらうために謝るのではない。
自分がしたことを認めるために謝る。
自分が相手に与えた影響を、自分の都合のいい物語に変えずに見るために謝る。
そして、
たとえ相手から許されなかったとしても、
「それでも、自分がしたことについては自分で引き受ける」
というところまで含めて、責任なのだと思う。
逆に、謝罪を受け取る側にも、
相手が真剣に謝ったからといって、
自分の感情まで変更する義務はない。
相手が泣いていても。
長い間後悔していたとしても。
勇気を出して謝ったとしても。
それを見て、
「じゃあ、私はもう傷ついていないことにしよう」
とする必要はないのだ。
そして、今回のことで私がもう一つ強く感じたのは、
一人の人間が、他の人の分まで許すことはできない
ということだった。
母が受けたものについて、
母が「もういい」と言うのは母の自由だ。
それは、母が自分の人生の中での決着として選んだことだから。
でも、その同じ家庭の中で、
その人の言葉や態度が作り出した空気を何年も経験した子どもたちがいた。
私も、その一人だった。
誰かに直接何かを言われたわけではなくても、
家庭の中の緊張や、
大人同士の関係の悪さや、
逃げ場のない空気は、
そこで暮らしている人間にも影響する。
だから、
母が許したことで、
私の中に残っていたものまで自動的に消えるわけではない。
母には母の経験がある。
私には私の経験がある。
それぞれが、自分の分について決めればいい。
謝罪は、許しを受け取るための支払いではない。
謝ることは加害側の責任であり、許すかどうかは影響を受けた側の自由である。
🔥 自分が与えた影響の大きさと、引き受ける責任の大きさを合わせる
私が今回、特に引っかかったのは、
謝罪そのものより、
謝罪の範囲だった。
長い間続いた振る舞いが影響したのは、一人だけではない。
だから私は、
自分が与えた影響を本当に引き受けるのなら、
その影響がどこまで広がっていたのかを見る必要がある
と思った。
今回の謝罪は、母に対して行われた。
母が1人でいる時に、こっそりと駆け寄ってきたそうだ。
それはそれで、まあわかる。
でも、私の中には、
「それだけで終わりなの?」
という感覚が残った。
なぜなら、
その人の言動によって影響を受けたのは、母だけではなかったからだ。
家の中に漂う緊張。
大人同士の不和。
子どもには逃げ場のない空気。
そういうものは、
当事者二人の間だけに留まらない。
私はごく親しい人とこの件について話した時、
この感覚をかなり強い言葉で、
「公開処刑を受けるくらいの覚悟で謝れば?」
と表現したことがあった。
もちろん、本当に人前で罰せられろという意味ではない。
この人に不幸になってほしいわけでもない。
私が言いたかったのは、
自分の体面を守れる範囲で、
自分が安全な場所に立ったまま、
綺麗に謝って終わるのではなく、
自分がしたことが周囲に知られる可能性も、
自分が恥をかくことも、
相手から許されないことも、
場合によっては、自分が思っていた以上に大きな影響を与えていたと知ることも。
そこまで含めて、
それでも、
「これは自分がやったことです」
と引き受けられるのか、ということだった。
責任を取るというのは、
正しい言葉で謝ることでも、
反省している自分を示すことでもない。
自分が現実に何を生じさせたのかを見ること。
そして、その現実の大きさから目を逸らさないこと。
私は、そこまで含めて初めて、
責任を引き受けるということになるのだと思う。
自分が与えた影響の大きさと、引き受ける責任の大きさを合わせる。
それが、私にとって「責任を取る」ということなのだと思う。
🤍 許さなくても、その人に対して生命を使い続けなくていい
そして最後は、
「許さない」ということを、どう位置づけるのか。
私は、
許さないことと、復讐したいことは同じではないと思っている。
許さない。
でも、攻撃し続けたいわけではない。
相手に分からせたいわけでもない。
反省させたいわけでもない。
まして、ずっと怒り続けていたいわけでもない。
ただ、
「あれは私にとって、なかったことにはならない」
と認識している。
それだけだ。
私はこれまで、子どもの頃に経験したことや、
そのとき自分の中に何が起きていたのかについて、かなり深く掘ってきた。
当時の感覚を見つけて、何が自分の中に残っていたのかを確かめてきた。
だから今、それが現在の私を縛り続けているわけではない。
思い出したからといって、当時の感情や感覚が蘇ってくるわけでもない。
今ではもう、
ひとつの記憶として残っているだけ
という感覚に近い。
それでも、許したわけではない。
ここが、私は大事なのだと思う。
世の中には、
「許した方が自分が楽になる」
「許せないままだと、自分が苦しい」
という言い分がある。
確かに、そういう人もいるのだと思う。
でも、
自分が自由になることと、相手を許すことは、必ずしも同じではない。
過去に起きたことを見て、
自分の中に残っていたものを扱って、
もうその出来事に現在の人生を動かされていない。
そこまで来ているのなら、
さらに「許せる自分」になる必要が、どこにあるのだろう。
許さないままでもいい。
相手との距離を自分で決める。
これ以上そこへ時間を使わない。
相手が理解するかどうかにも関与しない。
そして、自分の時間も、思考も、感情も、生命力も、
これから創りたいものの方へ使っていく。
むしろ、
許すための努力にまで、さらに自分の生命を使わなくていい。
許さない。
でも、これ以上この人に私の生命を使わない。
私にとっては、それも十分に、
ひとつの完了の形なのだと思う。
次の記事では、個人の謝罪からもう少し視点を広げて、
「家族の団結」と「本当に支え合っていること」は同じなのか
について書いてみる。
許すことだけが、過去から自由になる方法ではない。
許さないままでも、その出来事に使っていた生命を回収し、自分がこれから創る未来へ向けることはできる。
私たちは、
誰かが語る物語や、
世の中で「正しい」とされている見方より先に、
自分の身体や感覚を通して、
現実の中で何かを受け取っています。
それを無理に良いものへ変換しなくていい。
誰かと同じ答えにする必要もない。
大切なのは、
自分には何が見えているのか。
何を大切にしたいのか。
そして、
自分の生命をどこへ使い、
どんな世界を創りたいのか。
Harmoniousが扱っているのは、
正しい答えを教えることではなく、
自分という存在を通して世界を見て、
自分の正位置から、
選び、創っていくことです。
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