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「どうやってるの?」と聞いた僕が、本当に聞きたかったこと



前回の記事では、5歳の娘から、

「弟なんて生まれなければよかった」

と言われた出来事について書いた。

最初、僕はその言葉をそのまま受け取り、

「弟の存在を否定するような、ひどいことを言った」

と思った。

でも、話をしていく中で娘から出てきたのは、

「寂しい」

という言葉だった。

そこで考えたのが、

僕たちは、相手が口にした言葉だけで、その人の内側まで分かったつもりになっていないだろうか。

ということだった。

そのことを考えているうちに、僕自身が小学3年生だった頃の、ある出来事を思い出した。

前回の記事の詳細はこちら



小学3年生くらいの頃のことを、今でも覚えている。

母の実家に父と一緒に行ったときだった。

母や祖父母たちは楽しそうに話していたけれど、父は少しアウェイで、なかなか会話に入れずにいた。

僕自身も積極的に話すタイプではなかったので、気づけば父と僕だけが黙っていた。

みんなが話しているのに、自分たちだけ話していない。

子どもながらに、その空気が気になった。

「何か話さなければ」

そんなことを考えていたのだと思う。

ちょうど父が、硬貨を指ではじいたり、指の間で回したりして遊んでいた。

途中で使う指を変えたのを見て、僕は聞いた。

「どうやってるの?」

すると父は、

「そんなの、指変えて遊べばいいんだよ」

と、少し怒ったように返した。

僕は意味が分からなかった。

なんで怒られたんだろう。

何か悪いことを言ったのだろうか。

そして、

「もう話さない方がいいのかな」

と思った。

でも今振り返ると分かる。

僕は、遊び方を知りたかったわけではない。

父と僕だけが黙っているその空気を、何とかしたかった。

「どうやってるの?」は、そのために出てきた言葉だったのだと思う。

「どうやってるの?」は、質問ではなかったのかもしれない

表面だけを見れば、僕は父に遊び方を質問している。

だから、

「指を変えればいい」

という父の答えは、質問に対する回答としては間違っていない。

でも、僕がその言葉を使った理由とはズレていた。

僕が欲しかったのは、遊び方の情報ではなかった。

父と僕だけが黙っている状態を、少し変えたかった。

でも、小学3年生の僕は、

「この沈黙が気になるから何か話そう」

とは言わなかった。

そもそも、自分がそんなことを感じていることにも気づいていなかったかもしれない。

ただ、

「どうやってるの?」

と言った。

ここで、前回の記事で考えたこととは少し違うズレがあることに気づいた。

前回は、

内側にあるもの → 言葉 → 相手の解釈

という間にズレが生まれるのではないか、と書いた。

でも今回の記憶では、もう一つある。

「何を伝えているか」と「何のためにその言葉を使っているか」は、違うことがある。

僕の「どうやってるの?」が、まさにそうだった。

言葉として伝えていたのは、

「やり方を教えて」

だった。

でも、その言葉を使った目的は、

父に話しかけて、黙っている状況を変えることだった。

言葉に正しく答えても、すれ違うことがある

このことを考えると、人との会話は思っていた以上に難しい。

相手の言葉を正確に理解して、その質問に正確に答えたとしても、相手がその言葉を使った理由とはズレることがあるからだ。

例えば、

「今日、仕事大変だった」

と言った人に、

「でも仕事なんだから仕方ないよ」

と返す。

言っていることは間違っていないかもしれない。

でも、その人が欲しかったのが解決策ではなく、

「大変だったね」

という一言だったとしたら、どこか噛み合わない。

僕が父に「どうやってるの?」と聞いたときも、似ていたのだと思う。

父があのとき何を感じていたのかは分からない。

疲れていたのかもしれない。

何か別のことでイライラしていたのかもしれない。

ただ単純に、僕が遊び方を聞いていると思っただけかもしれない。

あるいは、僕が気を遣って話しかけていることに気づいていたのかもしれない。

今となっては分からない。

ただ、小学3年生の僕には、

「話しかけたら怒られた」

「自分が何か悪いことを言ったのかもしれない」

という解釈が残った。

娘の言葉を聞いたとき、この記憶を思い出した

この記憶を思い出したきっかけは、5歳の娘から、

「弟なんて生まれなければよかった」

と言われたことだった。

その言葉を最初に聞いたとき、僕は強く反応した。

でも話していくと、

「寂しい」

という別の言葉が出てきた。

それが娘の気持ちのすべてだったかは分からない。

ただ、最初の一言だけでは見えていなかったものがあった。

小学3年生の僕も同じだった。

僕は「どうやってるの?」と聞いた。

言葉だけを見れば、遊び方を知りたかったように見える。

でも僕がその言葉を使った目的は、

父に話しかけて、黙っている状況を変えることだった。

表面の言葉だけに反応すると、その人がその言葉で何をしようとしていたのかを取りこぼすことがある。

だから今、子どもの強い言葉や理解しにくい行動に出会ったとき、

「なぜそんなことを言うの?」

だけではなく、

「この子は、この言葉で何をしようとしているんだろう」

と考えることがある。

怒っているように見えて、本当は助けてほしいのかもしれない。

何度も同じことを聞いてくるのも、答えが知りたいのではなく、何か別のことを求めているのかもしれない。

もちろん、本当にただ怒っているだけかもしれないし、本当に答えが知りたいだけかもしれない。

そこは分からない。

だからこそ、その奥にあるものを勝手に決めつけないことも大事なのだと思う。

でも、ここで一つ引っかかることがある

僕がこう考えるようになったのは、自分自身の経験があるからだと思う。

子どもの頃の僕は、言葉の奥にあるものまで見てもらえなかったと感じている。

だから今、自分の子どもに対して、

「この言葉の奥には何かあるんじゃないか」

と考える。

一見すると、それはいいことのようにも思える。

でも、ここで少し引っかかった。

僕が子どもの頃にしてほしかったことを、娘もしてほしいとは限らない。

「自分ならこう感じる」

と、

「この子もこう感じている」

は違う。

僕は本当に相手を見ているのだろうか。

それとも、自分の過去を相手に重ねているだけなのだろうか。

表面の言葉だけで、相手を分かったつもりになってはいけない。

でも、言葉の奥を勝手に想像して、それを「本心」だと決めてもいけない。

だとしたら、人は結局、完全には理解し合えないのだろうか。

もし、完全には理解し合えないことが前提なのだとしたら、

僕たちは人と会話するとき、何を意識すればいいのだろう。

娘との一件から、最近そんなことを考えています。

もし似たような経験や考えがあれば、コメントで聞かせてもらえたら嬉しいです(^^♪

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