戦国武将は、統治(ガバナンス)と防衛がうまくいかなければ、切腹しなければいけない苛烈な職業だった
宮下英樹さんの「歴史知識ゼロのボクがどうやって歴史マンガ『センゴク』を描き続けられたのか?」(星海社新書)を読みました。
この本は、戦国時代を理解するのに一番の入門書だと感じました。
戦国時代の本といえば、司馬遼太郎さんの「国盗り物語」「関ヶ原」などがありますが、戦国大名のことをここまで研究して書かれているエンタメ本はないような気がしております。
宮下さんは歴史知識ゼロの状態でしたが、ヤングマガジンで連載を開始することになりました。
当時のヤングマガジンの編集部は、ヤンキー漫画の頂点だったそうです。
編集長は、想定読者を「刑務所に入所して人生を反省しているヤンキー」「警察に捕まっている人への差し入れとしての雑誌」とし、「更生のためになる娯楽雑誌を目指すべし」という社会福祉の視点(?)を有しておられたそうです。
宮下さんと「ベスト&ブライテスト」な編集者が集結した編集会議では、どのような漫画にするか結論が出ませんでした。
最終的に、ようやく決まったのは、「不良の白バイ隊員のコンビモノ」でした。
連載開始は3か月後と告げられます。

宮下さんは、バイク教習所に通うことにしました。
しかし、見事な失敗に終わります。教習中に宮下さんが乗ったバイクが故障して全く動かなくなりました。
教官も原因が分からず、二人してオロオロしていたら、いかにもヤンキーという出で立ちのスタッフがやってきました。
「なんか変な音がしているんで来てみたんですけど、この部分が外れてるっすよ」
そう言うや否や、あっという間に故障を直してしまいました。
宮下さんは、ショックを受けます。
自分には、とても彼のようなヤンキーを喜ばせるような漫画は描けない、と悟ったのです。
遠く離れた場所から「変な音」を聞き分ける聴覚。
その聴覚に従って即座に駆けつける瞬発力。こんなにも野生的な頭脳は、自分は持ち合わせていない。
こうして「白バイもの」はお蔵入りになります。
しかし時はいたずらに経過し、1月もバイク教習所で費やしてしまっていました。連載開始まであと2か月しかありません。
宮下さんを担当した編集者は、週刊現代編集部から異動してきたばかりの漫画編集歴1年目で、実は漫画に詳しくありませんでした。
戦国時代が熱狂的に好きでした。
担当さんが乗り気なものを楽しくやるのがいいだろうと、戦国時代ものを描くことに決めました。

誰を主人公にするかで悩みました。信長のように格好良くて隙がないイケメンを主人公に据えるのは漫画では難しい。
担当編集者が集めてきた戦国時代の資料の中に「信長の野望」のデータブックがありました。
これをパラパラ眺めてみると、仙石権兵衛(仙石秀久)という人物に目がとまりました。
一五五二?~一六一四。越前守。豊臣家臣。淡路島平定に活躍した。
戸次川の戦いで島津軍に大敗し、所領を没収されていたが、のち帰参を許された。
織田信長や豊臣秀吉とも深い交流があったようだし、なにより長生きしている。
戦国時代を股に掛けて活躍したのだろうから、主人公としても好都合だ。
担当編集者を通じて歴史小説の作家を紹介してもらい、「仙石家の家譜を調べよ」とアドバイスを受けました。
家譜には、「仙石権兵衛は姉川の合戦で、敵の浅井家の武将と一騎打ちして討ち取った」とありました。
「一騎打ちのシーンが描ける、これはいける!」宮下さんは確信しました。さらに「仙石」という名前はセンゴク時代を象徴している。
あと1月ほどしか残っておりませんでしたが、担当編集者の「落城からはじめたら」というストーリーで、第一話から突っ走ります。
「冒頭に死体を転がせ」というセオリーを小説教室で習ったことを思い出しました。

仙石権兵衛は、歴史上稀に見る大失敗と大逆転をした武将です。
信長没後の秀吉の大出世に随伴し、讃岐国十万石を与えられ国持ち大名になります。
秀吉配下の出世頭として、九州征伐では、前線に立って長宗我部元親ら四国勢を率いて島津軍と対峙することになります。
秀吉がまずは防備を固めるように指示していたのにもかかわらず、戸次川の戦いでは仙石権兵衛の軍勢が突出します。
そこを狙われて四国勢全軍は壊走しました。
権兵衛は一時行方不明となったこともあって、秀吉の逆鱗に触れ、豊臣家臣団から追放されるように改易となります。
温情としての1万石を与えられるも高野山に送られました。
普通ならここでゲームセットですが、高野山で修養をしたことが復活の鍵となります。
秀吉の小田原攻めに手弁当で参画します。秀吉が山上から遠く見守る中、一つの虎口を落とすことに成功しました。
秀吉と会見し、ついには信州小諸城をあてがわれて大名へと復帰します。
歴史に類をみない「大逆転」でした。
宮下さんが仙石権兵衛(秀久)を主人公にしたことで、歴史ファンがどよめいたそうです。
その理由は、あの司馬遼太郎さんが、嫌いな戦国武将として真っ先に挙げていた武将だったからです。
黒田官兵衛を描いた「播磨灘物語」や長宗我部元親の「夏草の賦」で、「かなりまずい指揮をし、自己顕示欲も強かった」という解釈を示していました。
そんなマイナスイメージの強い武将で連載を開始するなんて、無謀すぎると、多くの読者が驚いたそうです。
宮下さんはこのことを全く知りませんでした。
「逆張り」を狙った訳でもなかった。
感心するのは、宮下さんの視点です。

宮下さんは、戦国大名は「地元への公共サービスの提供者」だと言っております。
主たる仕事は、道や都市の整備、治水、祭祀、他の勢力からの防衛です。
それらを地元勢力が納得する形で供給し、しかも外的から土地を守ること。
戦国大名がそんな存在だからこそ、民衆もそれを支持し、戦への動員を受け入れた。
根回しやロジスティックスといった「統治の巧さ」が問われる職業で、おそろしく「しがらみ」にとらわれた仕事だった。
戦国大名にはただ「能力」があればよかったかといえば、むしろ逆。才能がある人は追い落とされ、足を引っ張るような形で消極的にも攻撃された。
地元への挨拶一つで物事がきまっていくような現代の選挙にも通じる地元中心の分権的な世界が戦国時代の日本に広がっていて、必ずしも能力主義一辺倒ではなかった。
城一つ奪おうとするだけで、途端に四方の敵が合従連衡して自分を潰しにかかってくる。だから領域一つを奪うのが困難。
無数の在地勢力の利害が錯綜するなかで、一人の優秀な人間が抜きん出ようとしても、激しい足の引っ張り合いで潰されてしまう。
戦国大名は「国衆」に嫌われないように努力しながら、いかにして道を確保し、モノと銭の流れを掌握するかに頭を悩ませた。
その実態は、おそろしく「地道」なものだったと、宮下さんは指摘しております。
統治(ガバナンス)と防衛がうまくいかなければ、切腹しなければいけない苛烈な職業でもありました。

思い出されるのが佐々成政です。私が富山県に出向していたときに初めてこの武将の名前を知りました。
地元の富山県では超有名で、冬の立山を二度も越えたことから、冬山クライマーから尊敬されています。
九州征伐での功が認められ、秀吉から肥後(熊本)一国を与えられました。
秀吉からは、早急な改革は慎むようにと指示されておりました。
しかし成政は、いそぎ検地を行おうとして、これに国衆たちが反乱して一揆が起こります。
成政は一揆を鎮めることができませんでした。大坂に出向いて秀吉に謝罪しようとしましたが、面会を拒否され切腹を命じられています。
富山県では「佐々成政を大河ドラマに」という運動を続けていますが、正直難しいと思いました。
そうしてみると、熊本を治めた加藤清正という人物は大したものだと思います。
清正が亡くなって間もなくして細川家に変わったので統治期間は短いのですが、今でも熊本では加藤清正の人気は絶大です。
この人気の理由は、治水事業と農業振興にあるとのこと。
農閑期に土木作業を行い、男女を問わず徴用して給金も支払ったことから皆喜んで協力をしたそうです。
最新の測量土木技術を持ち、河川の改修、海岸の干拓と堤防整備、平野の灌漑事業などを行った加藤清正は、神様となりました。
清正公さん(せいしょこさん)と親しまれており、熊本城の中に加藤神社があります。
この本を読んで、城を見る目が変わりました。宮崎には多くの城があります。
実は、椎葉村にも城があります。
椎葉の奥に位置する向山の日当には城跡があり、現在はヘリコプターの発着場となっています。
