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なぜ、ちいかわは「話さない」のか? なぜハチワレは「言葉を使えてしまう」のか?

映画「ちいかわ」を観て以来、いろいろ関連情報に触れていて、思わぬ気づきがありました。そして、自分の幼少期の、なんの価値もなかったと思っていた頃が、肯定された気がしました。

ちいかわの中でも変わった設定のひとつに、言葉を話す個体と話さない個体がいる、という点があります。

見始めの頃は、ちいかわとハチワレに知的な発育の差がある設定なんだろうと思っていましたが、どうやらそれは勘違いのようです。また、言葉を話さない個体も登場キャラ同士では会話できている(ちいかわとハチワレの間では会話が成立しているなど)かというと、たぶんそういう感じでもありません。

なぜかは分からないけど、言葉を話す個体と話さない個体がいて、ちいかわなど話さない個体も、聞いたり読んだり書いたりはできるっぽい。極限まで引き算されたちいかわ世界において、言葉を発さない、という選択を(自発的に、あるいは結果として)しているキャラクターなのだ、と理解するのがよさそうです。

狭く深い交友範囲なら、言葉は必要ない(?)

保育園の頃から小学校の低学年ぐらいまで、私もほとんど話さない、極端に無口な子でした。何かしゃべるたびに親から怒られたり、クラスメイトが変に湧いたり期待外れなスベり方をしたりと、ろくなことがないと感じていた記憶があります。当時、ある時期からひんぱんに出入りするようになった地域の図書館のおばさんには、小林くんはホントに大人しい子ですね、との感想をいただきました。

ちいかわの、感情が大きく動いて思わず言葉(のようなもの)が出てしまうとき以外、能動的には話さない、みたいな感覚って、分かる感じがするんですよね。うさぎは一種の縛りプレイ(特定の音以外発さない)っぽい感じがします。

そんなにしゃべらなくて大丈夫なのか? というと、小さい子どもの生活圏・交友関係であれば、「言葉を交わさなくても通じ合う」タイプの子だけで楽しくやることも、まあできなくはありません。表情や仕草から情報を読み取り、推測してなんとなくいい感じに遊んだりもできます。

ただ、別にほかの子も同じように思っているとは限らないので、成長して言葉を使いこなす便利さを覚えた子から、いろんな主張をするようになり、なんか違うなー…みたいな感じになっていきます。

私の場合、言葉を覚え始めた頃から小学2年生ぐらいまで、そういう感じで、周囲の子たちとなんかどんどん合わなくなっていくな、という嫌な感じも持ち続けていた気がします。しゃべってもそれほど嫌なことばかりではない、と思ったのが3年生以降で、その後、徐々に自分も言葉を使いこなす便利さを覚えた、という感じでした。

言葉を交わさなくても気持ちが通じ合うというのは、考えてみれば感情的なコストのかかるコミュニケーションであり、言葉でワーッとやる方が、圧倒的に楽なんですよね。一方で、コストのかかることをやって気持ちが通じ合えた(と感じられた)時の喜びは、言葉で楽にやった時には決して得られないと思えるものがあります。このあたり、乳幼児の子育てとかペットとの付き合いに通じるものがある、というとイメージしていただける方も多いでしょうか。

「話さない」を選択しているキャラクターたち

つまり、ちいかわなど作中で話さないキャラクターは、知的にどうという話ではなく、自発的な選択として、または言葉を使う必要を感じてこなかった結果として話さないで生活しており、狭くて深い交友関係に満足しているのだ、と考えることができます。ちいかわ世界のちいかわ族の生活においては、それでも大きな問題はないのでしょう。

一方で、言葉を使うキャラクターには、おのおの性格や行動特性による必然性があるように思われます。ハチワレは社交的な性格で、知らない人ともどんどん話そうとします。ラッコ先生は仲間と「討伐」をするため、言葉で的確な情報共有や指示出しができた方がいい。シーサーは向上心が旺盛なうえに世話好きで、たくさん話したいのでしょう。そしてモモンガは、万人に自分のワガママをぶつけたい。

こう考えていくと、 言葉を使うことと使わないことは、考え方やライフスタイルの違いだよね、という捉え方で成立する気がしますね。実際にどういう設定なのかは不明ですか。

「言葉を使えてしまう」ことの不幸

私たち人類はちいかわよりも複雑な世界を生きており、言葉を使えた方がどう考えてもいいわけですが、ちいかわ世界を見ていると「言葉を使えてしまう」ことの不幸な面、みたいなものも感じられます。

例えばハチワレは、ときおり言葉に思考が縛られてしまうことがあるように見えます。「友達」とか「強さ」とか、そういった言葉って、状況や心理状態により捉え方が変わるじゃないですか。多義的である(さまざまな定義づけや解釈ができる)のとも少し違って、うっかりすると呪いにもなり得る言葉だなと思うのです。

ちいかわとハチワレとうさぎは、簡単に言えば「友達」ですが、では友達とは何なのか? 例えば、仮にハチワレが悪の道に向かいつつあったとして、引き戻そうと立ちふさがるのが友達だろう、と読者視点では思いますが、ハチワレ視点なら同調してくれる存在こそ友達、と思うのではないか。それは「友達」という言葉の意味合いが、状況や心理状態によりズレてしまうという罠なのではないか…。

ちいかわをちいかわそのものとして見続けていれば、ハチワレに変化があれば反応が変わるのは当然だと受け止められる、あるいはちいかわの反応の変化から自身の変化も自覚できる可能性が高いでしょう。でも、ちいかわを一旦「友達」として抽象化してしまい、友達とは自分に常に寄り添ってくれるもの、のように考えると、ちいかわは常に自分に寄り添ってくれるはず、という身勝手な期待が生まれうる。言葉に縛られてしまうと、しばしばこういうことが起こると思います。

言葉を使わないなら、通じ合っていると感じられるときはそれでよく、通じなければ距離をとるようにし、なんかこれはダメなだと思ったらもう関係は成立しないと、抽象化や見立てなどする余地なく「あなたとわたし」の関係で見るしかありません。ただ、長く連れ添った相手と決別するのは悲しいから、そこでの葛藤は言葉があろうがなかろうが起こるわけですが、3人(?)の中でハチワレだけが言葉を使うため、ときおり空回りしているようにも見えるのかなあ、と思ったりします。

ただ、関係の深くない他者とも適切な意思疎通や交渉を行うためには言葉が重要です。人類の歴史においても言葉が通じない相手に武力をチラつかせつつ自分たちの言葉で丸め込む、ということは各地で行われてきたわけで、人魚の島に言葉を話せる住民がいたらどうなっていたか、などと、別途考えてみると面白いものかもしれません。

歌はいいね…

そんなわけで、全くの無価値だと思っていたあの頃の感覚を捉えなおし、当時どんなことを思っていたんだろうと振り返り、単に自分がバカだったわけでもないと、けっこう肯定できる気持ちになれたのはよかったです。そんな幼少期の失われた感覚まで蘇らせてくるちいかわは、あらためてすごい作品だよ…。

あるキャラは話せて、あるキャラは話せない、という浅く普通に考えれば不公平でしかない設定を、納得させてるのもすごいと思うんですよね。私は今回このように掘り起こして考察しましたが、似たようなことが、多くの人にとっても何となく「分かる」ということなのか? そうでもないのか? そのあたりは、今もちょっとう掴めません。

そして、言葉を使うよさを最も感じさせる場面といえば歌です。「歌はいいね」というセリフを残したのは他のアニメのキャラですが、確かに歌はいいなと、あらためて思いました。

映画の感想はこちら(↓)に書いています。


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