「映画ちいかわ」感想、あるいは妻と“例の煮つけ”を食べるまでの話
「ちいかわ」については、ナガノというちょっと変わった雰囲気のイラストレーターの方がいて、ある時「なんか小さくてかわいいやつになって暮らしたい」みたいなことを言い出し、なんかそういうタイトルのマンガを公開しているようだ、ぐらいの理解でした。
でも、人魚の島編が盛り上がりだしてからはTwitterで毎日のようにマンガが流れてくるようになり、それを見ていると感想・考察の類も流れてきて、見事にフィルターバブルに詰め込まれている感じになってきました。
一方で、妻は純粋に「かわいいキャラクター」としてちいかわが好きなんですが、この頃、ちいかわのマンガ読んでる? と聞いたところ読んでいない、それどころかSNSで連載されていることも知らない、との回答で、毎日ヒヤヒヤしながら新作の更新を待ってないちいかわファンもいるってコト? そういう人にどこから話を始めれば通じるんだよこの作品の世界観どうなってんだ? と困惑したものです。
それから2年ぐらい経ったのでしたっけ。予想されていた通りに映画化が発表され、これは必ず観に行きましょうと、妻と話しました。それまでに、ちいかわが話題になるたびに、人魚の島編のマンガがわりかしブラックなストーリーであることを説明するなどし、アセスメントを経ての合意形成です。
以下、映画に関するネタバレを含みます。
「自力救済モノ」とは正反対の物語
人魚の島編のストーリーって、映画としてはそこまで大きく受けないんじゃないか、と思っていました。
今の世の中、「自己責任」が喧伝され、フィクションにおいても、受けるストーリーは大きな悲劇からの自力救済みたいなのが多いじゃないですか。
「生殺与奪の権を他人に握らせるな 」との教えを忠実に守った大ヒット映画の主人公である炭治郎などが典型例ですが、それに対してちいかわは、自己責任・自己決定論者からすれば、映画館で高い金取って何モチャモチャしたもん見せとんねんぐらいの感想になりそうにも思われます。
それ以外でも、大きくヒットする映画は、主人公の選択が世界の運命にも影響する、いわゆる「セカイ系」だったり、「異世界転生モノ」とかの、いずれにしても主人公の力が強く、世界への影響も猛烈に大きいものだと思うんですよね。
まあしかし、大きく受けるかどうかと、私個人にヒットするかどうかは別の問題なので、どうでもいいということにしておきましょう。
私が必ず映画を観に行きたいと思ったのは、1つに人魚島編は面白かったけどどこかスッキリしなさもあったし、妻の感想も知りたいしおそらく総合的に言えばポジティブであろうと思えたし、何より、ナガノ氏に強い「信頼感」とでも言うべきものを抱いたからでした。
我ながら信頼感ってどういうこと? という感じで、うまいこと整理できていないのですが、浅く言えば、100ワニの本当に膝から崩れるかと思ったほどの失意からの反動があるかもしれません。この作家はブレないし間違わないな、という感じの。
もう1つ、ちいかわみたいになって暮らしたいとかいう話を聞いたときには、人生に疲れたからチヤホヤされるだけで生きていきたいみたいな、単なる愚痴だと思っていたんですが、むしろ「(小さくてかわいいだけの、完全に階層は固定された)弱者の生を描きたい」みたいな話だったのではないか? と、ナガノ氏が盤外戦術的に何気ない発言まで振りにして作品をプロデュースする、とんでもねえ嘘つき(優れたフィクションの描き手という意味で)だった可能性を感じるようになってきました。では、この作家が、構想段階から映画化も想定されていただろうエピソードを、どんな風に仕上げるものだろうか…?
と、そんなことを思っていたもので、映画の脚本もナガノ氏と聞いたときには期待感が爆上がりしました、
もしかすると映画では結末が変わったり、何かが付け足されたりする可能性もあるぞ、と思っていたのですが、そんなことはなく、つまり、最初から仕上げきった味付けで出していて 「これをちゃんと味わえ」ということなんだなと、非常にスッキリとした納得感が得られました。
私はこの映画で、ちいかわの「引きずらない」ところが、一番気に入っています。どうやら、とんでもない秘密に自分だけが気付いてしまったらしい。でも、当事者を問い詰めるでもなく、周囲に告発するでもなく、友達と情報共有するでもなく、ただ自分の胸の内に収め、帰り道で最も有力な物的証拠になりそうなモノも失い、おそらく島から帰れば滅多に思い出すこともないでしょう。
Twitterでの連載を見ていたときは、あれだけの体験の後で何も引きずらにまた日常的な場面に戻ったことに、少々狼狽したことを覚えていますが、何といいますか、それも1つの納め方というか、別にヒーローでもなんでもない人の生き方だよなと思います。
そもそも、確定的な情報は得ていないはずのちいかわの理解が、どれくらいに達しているのか? という不確かさもありますが、それは置いておいて。
誰もが個人の力を強く発揮できる制度や装置にあふれた現代において、私たちはその気になって突き進めば何らかの点で世界に強く影響を及ぼし、何かを変えてしまうことも可能です。そういう物語も大切です。
が、一方で、どんな強者にもどうしようもない悲劇とか不条理に襲われることはありますし、純粋な好意や利他心からの行動が、何でそうなるのという惨劇を呼び込む展開にになってしまうこともあります。
また、他者の問題でしかない出来事に間近に遭遇し、モヤモヤはするが自分が関わっても本質的には何も解決できないだろう、といった事態に巻き込まれることもあります。
島を挙げての大ボラに惑わされつつも、表面上は激辛カレー作戦で鮮やかに解決したように見えて、その奥の真実(らしきもの)には何も手が出せないまま帰っていく、法なき世界の見るからに最弱の存在であるちいかわ達の姿には、力なき存在の悲しみと、それでも帰れる「日常」が確保されてことの力強さを感じました。
そして時は万能の薬、忘却は癒しであると。永遠に生きる存在にとって時がどういうものであるかは、謎ですが。
日常とは何かというと、最低限の衣食住の準備であり、何のかんのと気を使いあい、気持ちを分け合える仲間や友達です。後ろの方は「尊厳」みたいな言い方をしてもいいのかもしれません。
映画で、美しい映像になり、声や音楽が付いて、その「日常」の美しさ・尊さがマンガ以上に強く伝わったと思いました。自分を取り巻く日常を信頼できる限り、私たちは己の不甲斐なさに打ちひしがれることがあっても、生きる意味を見失わずにやっていけるのではないか…などと思いました。
例の「煮つけ」を食べた
昼過ぎに映画館を出て、何を食べようかと問うと、妻は「カツカレーが食べたい」と言いました。ただ、映画館の目の前にあったトンカツ専門店を覗いてもカツカレーはなく、そもそも妻は辛いものが得意ではないので、別のメニューになりましたが。
「予習」もしていたという妻いわく、「湊かなえの小説のようだ」とか「グリム童話のようだ」とかいった感想を見ていたけど、まさにそんな感じだった、とのことでした。
なるほどね。セカイ系ではなく世界に翻弄される小さき者の物語というのは、昔から連綿と編まれてきたわけですね。湊かなえは言い得て妙かもしれないな。しかし、湊かなえ作品は(登場人物の)悪意を(作者の)悪意で煮しめたみたいな感じでもう読めないんだけど、ちいかわは悪意じゃなくて自然の摂理をかわいいキャラクターデザインで冷酷に描く、みたいな感じで、わりと違う気はするんですよね。
そして、面白かった、ちいかわコラボの煮つけとか単三電池とかがあった意味がようやく分かった、とも聞きました。パナソニックがコラボ単三電池を出していると知らなかった私は、そんなことまでやっとるんかい! と若干呆れました。
数日後、妻がセブン-イレブンのちいかわコラボの赤魚の煮つけを買ってきて、一緒に食べました。赤魚の煮つけってそんなに食べ慣れてもいませんが、思った以上に味が濃い、そして、生臭いわけではないんだけど思った以上に野性味を感じる、と思いました。
パック保存では、臭み消しの生姜がそこまで効いてこないことも理由だと思うのですが、ある種の「演出」として、そういう味付けにしているのでは、という深読みもできそうに思われました。真相は分かりませんが。
映画を観たあと、こんなことも考えました(↓)。
