“音楽” はもう売れないよ~経済のこれからと “エーアイ”~
先日 考え事をしている内に、このようなフレーズが生まれてきました。
「純粋に “音楽” を資本としたビジネスは、今後もう成り立たなくなる」

本記事での「資本」は、ざっくりと「商品」のことだと思って読み進めても、概ね意味が通るでしょう。
私が個人事業でやっているのは、“音楽の知識” を資本とした学習支援業であり、直接 “音楽” を商品としたものではありません。不甲斐無いながらも。
価値の尺度
ヒトは、「個として生き、自給自足で暮らす」よりも、「役割分担と物々交換」を選択しました。
「社会的存在」とはこのことを意味すると、私は考えています。
時は流れ、ヒトはさらなる大規模な役割分担により、さらに大きな建造物を、さらなる画期的な発明品を、生み出すことに夢中になりました。

もうその頃に至っては、「物々交換」ではダメでした。
求めるスピード感で機能しなくなっていたのです。
ヒトは「価値の尺度」を欲した。
それは自在に細分化でき、何とでも比較することができる。つまり単位。
これを「貨幣」と呼びます。一般的には「お金」です。※1
実際に買うか買わないか・買えるか買えないかは別として、ありとあらゆるモノの価値は、一旦「幾らくらいか」と考えてみることができ、そして比較することができます。
ヒトは、モノの価値を「主観的に」判断することに疲れたのです。
ここでの「主観」の語は、「主観時間(カイロス時間)」という時のようなニュアンスで掴んで下さい。雑に平たく言えば「心持ちによって異なる」ということです。
「“客観的” な価値の象徴」として、貨幣は普及しました。
※1 経済学上・あるいは広義の「貨幣」。
法令用語としては「貨幣」は「硬貨(coin)」のみを指し、紙幣や信用貨幣を含まない。
その実、媒介物(medium)でしかないのに。
代理でしかない、その実 空っぽなはずの紙切れだったり、今では電磁記録でしかなかったりするソレらで、ヒトは「物々交換」以上に便利な交換に、味を占めました。
芸術って「(ものの)価値の"尺度"を欲した暴挙」を、永久に責め苛み続けるために存在しているのかもな、社会的には
— 飛岳(Hidaka) (@Hidaka_Sui) May 7, 2023
与党「資本主義(的な・その方向性の)経済」に対する野党の立ち位置か
両陣営、単独で唯一正義たり得ると思っている過激派が目立つが、それが間違っていると
中間媒体としての「貨幣」が、物々交換で必要だった諸手順の内、一体「何」を省略可能とさせているのか。一つは「任意に細分可能であること」でしょうが、それ以外の部分については、……とても難しい話ですね。
億劫な価値判断を「遠いどこかのたくさんの誰か」の責任にできること?でしょうか。
↑ の書籍(クッソ名著)では、「お金」に求められた機能として
「長く貯蔵できる(穀物は劣化し、ネズミにも喰われる)」
「容易に移動させることができる(穀物を担いでいくのは大変)」
なども挙げられており、なるほど確かに。
p7より。※字数都合でほんんんの少しだけ改変して抜粋。
「14歳からの」というタイトルだが、本当に何十歳からでも読むと良い本。
むしろ14歳には早いまである。クレカとか持ってないだろうから。
“音楽” という詐欺商売
ここではそもそも「詐欺でない商売など存在しない」という観点と立場を取ります。
「両者合意の下で」、「合法的に」経済的価値(お金)を騙し取る。
そうでないなら “商売” と呼ぶ由はなく、物々交換と同じです。
“利益” はゼロで、“所得” は生まれません。
利益も所得も期待しない経済活動を、資本主義の世の中では、誰もやりません。何よりも「貨幣」が手に入らなければ、貨幣が無ければ、取引をしてもらえないからです。
商売とは、一見「物々交換と同じくフェアな交換」のように見せかけて、違和感が無い・相手を納得させられる範囲で、余剰な利益分を上乗せして、取引を成功裏に行う行為です。
なお「雇用」関係における「労働」と「報酬」の取引でも、同様です。
本当に win-win である場合、取引の第三者が割を食っている。
下請け業者とか、遠くの国の人々とか、地球環境・物的資源とか。
歴史的には非差別階級とか奴隷とか。よく「搾取」と呼ぶ。
さて、“音楽” には実体がありません。ここではCD媒体とか、握手券とかはカウントしませんよ。もちろん「思い入れ」や「エピソード」も。
音楽は、空気の振動です。空気ですらありません。
もっと言えば、空気の振動を元に脳が生み出す、脳内にしか存在し得ない「まやかし」です。(「クオリア」と呼んだりする。)
「主観的な価値判断」を遠ざけて遠ざけて生きてきたヒトにとって、空気の振動とか、まやかしに払う金などありません。
言い方を変えましょうか。人は普通「空気の振動」とお金を交換しません。
客観的に考えたら、それらは取引行為の元手たり得ません。手元に物理的な何もが残らないのだから。
実体が無いだけなら預金通貨などの「信用貨幣」も同じですが、音楽にはその価値に「普遍的な“信用”」がありません。
「見知らぬ誰かの作った好きでもないし聴いたこともない曲」の価値を、あなたは保証も信用もしないはずです。
それは「音楽の仕事のみで食っていける人間がほんの一握り」であることに対応する。
そしてそれは、音楽が何かしら「実体」を有していたならば、変わっていたであろう事情だ。
🔹
かつては音楽会社・レコードレーベルといった団体的存在が先導し、音楽に対する「定価」や「相場」を定めてあげていました。今となっては彼らの偉業に対して、頭が下がるばかりです。皮肉なものですが。
中高生の頃の私は「権威をぶち壊してやる」などと青いことを思っていた。
でも音楽は少しずつ、まとめ売られ、「聴き放題系サービス」に取り込まれ、今では全くお金を払わなくたって、掃いて捨てる程に増えた音楽の作り手が、当然のように無料で曲を公開します。
聴けるだけではなくて、音楽の商用利用を無条件で許可してくれている人さえ居ます。私自身も、それらに加担している一人です。
ヒトは、「音楽はタダ同然~タダである」というシンプルな真理に、もう既に気が付いてしまいました。
「価格の下方硬直性」などというワードを習った記憶がありますが、ヒトは一度 値が下がったモノについては、それが「以前の価格に戻る」だけの場合であっても、非ッ常に否定的に反応します。
「貨幣」と、それが醸成した「経済」という不可思議な仕組みに依存した現代社会は、人々がお金を使わなくなると、全てが共倒れするという奇妙な仕組みになってしまっています。
あるいはもう終わりなのかもしれない。
技術革新が「経済」を破壊する手順
その「気付き」の流れに拍車をかけるのは、生成AI技術の成長です。
今はもう「自分好みの音楽」なんて、一度その手のサービスを手に入れたならば、無限に ““自作”” できてしまう時代でしょう。
ほとんどの人間は「自分好みの音楽」なんてのを、自ら判断することなど出来ないのです。それは先の「主観的な価値判断」行為の代表格です。
衰えに衰えた能力です。退化も進化の内、とは言いますが。
「聴き放題」の需要として、「今・聴きたい音楽ですら、自分で思いつくのは億劫である」というのがあると考えます。
エーアイというのは定義として「スゴイ」ので、「エーアイが作った音楽なんて、スゴくて価値があるに決まっている」し、「エーアイが自分一人のために出力してくれた音楽なんて、自分好みであるに決まっている」。
……つまり「信用」がある。
経済に於いて価値があるのは「音楽」ではなく「信用」の方です。
言い方を変えましょうか。
「空気の振動」や「脳が作ったまやかし」ではなく、「信用」です。
人々にとってのAIの真価は最早「AI」というラベルとステータスであり、「AIが吐き出したモノであるか否か」「AIを介して出力されたモノか否か」に拠って、モノの価値を ““判断”” する時代は、もうそう遠くない未来です。
だから時代は、本当に生成AI技術が関与することに意義があるのかどうか怪しい物にまで、AIを積んで売ります。そうすると売れるからです。
そうするとクリックされるからです。
インプレッションとエンゲージメントが稼げるからです。
「そうしないと何も売れない」世界まで、秒読みです。

「退化も進化の内」だと言うならば、AIが促す「最適化された資本主義的経済」が、このような在り方の経済だということです。
AIは貨幣のように “medium” となり、
「“テクノロジーとしての” AIの価値」は、元は真価であったはずの所から、空っぽになります。
AI技術の動向に注視しなければならないのは、アーティスト界隈への影響などよりも、経済システムへの影響です。研究職の連中が、考えを至らせている訳が無いんだから。(至らせているなら、既にその手を止めている頃)
アーティスト連中のお気持ちなんて、一旦どうなったって良い。
クリエイターと学者連中が一番 他者に依存する営みが「資金繰り」であり「金儲け」であり「簿記会計」であり「ビジネス」だろうが。
――かつては音楽会社・レコードレーベルといった団体的存在が先導し、音楽に対する「定価」や「相場」を定めてあげていました。今となっては彼らの偉業に対して、頭が下がるばかりです。――
芸術は、少なくとも私の寿命までは残り続けることが確かです。心配いりません。
私が “アーティスト” であり続ける最後の領域
私は、そんなにアートの味方ではありません。
思い入れも無ければ、義理も特に無い。
私はむしろ「職人」でありたいのです。これは生来の性格的なものです。それ以外に理由はありません。「職人の仕事」が好ましいから。
だけれども、私にはアーティストとしての才があり、本心に従ってそれを潰すことはしませんでした。
「とうとう潰すことは出来なかった」とも言えますが。
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そんな私が「生まれ持った使命」だと思って、望んでそうするでもないが “アーティスト” であり続けようと試みる最後の領域。
それは例えば、「コンクールやコンペティションに一切 出品しないこと」であり、「生成AI技術に(自分の意思では)指一本 触れないこと※2」であり、
「“主観的な価値判断” を、積極的にやって見せること」なのです。
※2 昨今「知らされない内にその中身がすり替わっていて、意思に反して触れてしまっている」機会が、大いにあるに違いないから。自衛困難。
私がこんな、こんなにも前時代的な態度を取り続けるのは、個人的なポリシーや宗教じみた思想とかではなく、元はと言えば「経済の系の爛熟を0.000000…1秒でも遅らせるため」だと思って、健気にやっていることなのでございます。
私は、「生成AI技術を能動的に利用しなかった、人類最後の一人」になります。必ずです。
――客観的に考えたら、それらは取引行為の元手たり得ません。手元に物理的な何もが残らないのだから。
もっと言ったら「考えることを放棄すれば」を意味します。
熟慮せよ
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宣伝パート
私のYouTubeチャンネルのメンバーシッププラン・「疑似サブスク」は、私が私の作品だけで運営する「サブスク」です。
音楽をタダで提供し続けることに、どこかでは歯止めをかけなければならないという思いで、スタートしたものです。
そこで聴ける音楽は、私が「価値」を保証します。
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