モノ作りには2つある~芸術分野のモノ作りにおける、根本的な勘違い~
タイトルの「2つ」、すなわち「2種類」の違いを、最も簡単に言い表せるのが、まさに「“芸術分野” と見ることができる性質のモノかどうか」です。
ただしこの場合の「芸術」は、「何だってアートたり得る」という立場を取ってしまうと、少々 広すぎます。
その意味で「商業的か、芸術的か」と表現すれば、概ね意味を掴み易い方が多いかもしれません。
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この記事を書こうと思ったきっかけは、
――一般的なDAWやDTMの指南書は、リズムパターンやコードが中心で、肝心のメロディー作法まで踏み込めていない印象だったのですが、今回は「作曲超入門」のタイトル通り、メロディによく見られる構成パターンの導入に触れている――
本記事、今からこれを死ぬほど批判するため、引用元を伏せます。
不誠実かもしれないし、こうする方が良くないことかもしれないけれども、でも結論から言えば、「悪」だと言うことも、私にはできないのです。
傷つけたくないので、伏せます。でも「だったら黙れば良い」もするべきではないと私は思ったので、書きます。
経済1:価値の再生産
例えば料理のレシピ、ラーメン店のラーメンの作り方には、1から100まで可能な限り詳細に書いてある「完全なマニュアル」が整備されることが理想で、かつそれが利益を生じさせます。
手順の側が高度にシステム化されていれば、人材を「選ぶ」ことなく、お店を回すことが可能になります。これは様々な点に於ける効率化を実現させ得り、ひいては商業的利益・可処分所得をより多く生む余地が生まれます。
商売は上手にやってね。
経済2:新価値の創出
一方「曲の作り方」に完全なマニュアルが存在してしまうことは、全人類に影響の及ぶ、多大な損失となり得ます。
アートの価値は、「限られた手法で・限られた人物にしか作ることができないこと」自体が、担保しているモノだからです。
すなわち「誰にでも作れる」物は、「誰にでも作れる」ことが明らかになると、その一点のみを以て「アートとしては無価値化」していくのです。
これは恐らくですが、永久的です。
私は音楽理論コンテンツを割と書いていますが、各所で度々語る「絶対の信念」として「メロディ作りだけは絶対に理論化(=システム化)しない」ことを決めています。
神秘性の “全” 解体は、絶対に行われてはいけないのです。
なお、これは「私はその最後の牙城として “旋律” を選んだ」というだけであり、「メロディはシステマチックに組むけど、コード付けだけは霊感でやる」という人が居るなら、それでも良いと考えています。
全解体と同じことです。そのような動きは、自然に、必ず現れます。
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思うに、従来の音楽理論書などが「メロディに対してノータッチ気味」を貫いてきたのは、それらの執筆者が暗黙の了解としてそうしてきた「意図された傾向」であったと私は思うのです。根拠は無いけれど、きっとその殆どが私と同じ結論に至ったのだろう・至ってきたのだろうと。
西欧(西洋)音楽の美学の、抽出されたエッセンス・あるいは発明品としてのハーモニー(コードあるいは「和声」)。
有意に有益ながら、高度に「抽象的」な概念であるゆえに、「あえてその(=作曲)マニュアルを作るならば、限度として “ここ” まで」という意識。
噛み砕いて言えば「コード進行に著作物性は宿らない」し、「コード進行だけでは一般的に “曲” ではない」ということ。
つまり「コード進行には “顔” が無い」のです。「アイデンティティ」や「個性(“個人” 性)」とも表現できるでしょう。
アーティストとしての作曲家が、各々の責任で以て行うべきは、抽象的な和声に対する画竜点睛、「コード進行という素体に、例えばメロディ・例えばアレンジという “顔” をつけて、作品としての個性を確立してやること」に他ならないと思うわけです。
この意味に於いて、私はよく「曲の作り方ァ?甘ったれんな」ということを言うことがあります。
もちろん作曲家には商業的な役割もがあるので、一概に言い切ることはできません。その意味で私はよく、SoundQuestさんの記事を「職業作曲家養成プログラムとしてなら優秀」と評価しています。
(※ただし、今後はAIがやれば良い=最も効率的となる仕事)
彼も「メロディ理論」の重要性を説いていますね。
あるいは消費層への「鑑賞のヒント」です。
音楽のような産物に憧れるは良いが、その制作プロセスを「料理の作り方」や「バイトのマニュアル」のようなつもりで「用意してあるもの」だと思い込んで臨むのは、私が強い言葉で言う「勘違い野郎」なスタンスです。
もちろん「知らない」ということに罪はありません。
良ければ、知って下さい。
もしかするとこれから、常識の方が変わっていく時代になるのかもしれませんが、少なくとも本記事の主張することとして、
「完全マニュアル」に従って作ったら、もうあなたの作品じゃありません。
マニュアルを書いた人が、その権利を主張しないだけです。
経済1.5:両者の間の性質を持つ特殊領域
ここまでご理解いただけたでしょうか。以上の話をややこしくしてしまう「モノ作り」の例が、プログラミングのコードです。
これは名実ともに、前者2つの中間的な位置づけを有する・あるいは「有するものと考えられている」分野になります。
どうしてなのか、を簡単に説明しようと試みるならば、プログラミングという分野は「存在意義自体が効率化のためにある」という傾向にあるため、となるでしょうか。
「優秀なプログラマーは “怠惰” である」的な言い回しは有名です。
プログラミング分野に於ける美学的理想は「スマートですっきりしていること」そして「『楽すること』を考えること」と、よく聞きます。
これは二本柱というよりも、「“怠惰な” コード構成こそ、最もスマートなものである」というような、一つの暗黙的知識という感じです。
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勿論その「最適化されたコード」を思いつくことは、簡単なことではないのですよ。そこは「天才プログラマーの天才的発想」というような言い回しが体現している部分であります。
そして「過去の優れた実例から、積極的に吸収していくべき部分」でありました。かつては。
「過去の優れた数多の実例から、吸収する」というプロセス自体、今やAIに任せることが “最適” に近づきつつあるのが現代。
プログラマーとアーティストの最大の違いは、AI が人力を上回った暁には、「喜んで消えていく」のがプログラマー。醜く抗う、あるいは「醜く殺される生き様を見せつける」のがアーティスト、といった所でしょう。
そしてそのまま、プログラミングと芸術の間に見出し得る違いです。
無論「料理やプログラミングのコードは芸術たり得ない」などと言いたい文脈ではありません。ちゃんと話を聞けな。
そもそも料理って「色どり」とかも大事にされる分野。
本記事のような文脈を汲む場合、音楽というのは、原則は芸術カテゴリに包摂されるべき媒体となります。
なんですけど、ここに勘違い野郎を生んでしまうのは、「音楽がまぁまぁ数学だった歴史的側面を持ち、まぁまぁアルゴリズム的側面をも持つから」なのです。
音楽を、しかも “売れる音楽” を「楽して作る」という科学探求、あるいは「悪趣味な娯楽」が、まぁ道理的で仕方のないこととして存在しています。これは現実で事実です。
それに近い現象として、「作曲の “全” 行程のマニュアル化」という動きも、当然 出てきてしまいます。これは仕方のないことです。
勿論、本気でそれを「これこそが自分のアート」だと宣ってやる人が居たならば、私はそれを芸術的活動と呼びます。
だけれども「アート制作で楽を図る」ことというのは、その全てが悪な訳は無いけれども、ある意味で自殺的行為である部分はつきまとうのです。
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ですが、件の書籍の著者様は、多分なんですけど「その派閥の者だから」件の書籍を書いたのでは、ないんじゃないかと思っています。
「音楽はもう売れないから本を売る」、そんな流れの一つなのではと。
すなわち「曲だけじゃ注目してもらえないから音楽理論コンテンツを投稿し始めた」私と、立場は同じ。
(無論 名声は向こうの方が圧倒的に上です。)
「煽情的なサムネにしなければ、観てすらもらえない。高評価・低評価の以前に、評価の機会も得られない」からそうする、のと同じ。
私が「責めたくない」と申したのは、もしかするとこうかもしれないから、でした。
でもそれでも、私は「メロディの作り方」の記事は死んでも書きません。
同じく封印していた「コードの理論」の記事を最近 書き始めていますが、続きを公開するかは心底 迷っている所です。
私というたった一人の食い扶持のためにしては、犠牲が大きすぎるから。「音楽ビジネス」という経済的構造そのものを切り売りする行為ですから。
