わかって当然を、やめた。〜子どもを見る目が変わった日〜
家庭教師をしていた頃、僕は授業中、ほとんどノートを書かせませんでした。
もちろん、「書くことは無意味だ」と思っていたわけではありません。
書きたい子は書けばいい。
実際、驚くほどきれいなノートを作る子もいました。
でも、僕との時間は限られています。
話を聞きながら書ける子ならいい。
でも、書くことに集中して話が入ってこないなら、ノートは後回しでいいと思っていました。
僕が使いたかったのは、ノートではなく「対話」の時間だったのです。
勉強が苦手な子や、不登校の子を受け持つことが多かったので、授業は雑談から始まることがほとんどでした。
「雑談ばっかでもいいけどさ、オレ一応授業しに来てるから、ちょっとだけテキスト開いてくれない?」
そんな一言から授業が始まります。
子どもは「しゃあないなぁ」という顔をしながら教科書を開く。
その時点で、僕の中ではもう半分成功でした。
そこで問題を見せて、
「これ、何を聞いてるかわかる?」
と聞きます。
たいてい、「わからない」と返ってきます。
じゃあ、
「答え見ようぜ。」
と言います。
「答え見てもいいの?」
という空気になることもあります。
でも、僕はいつも同じことを考えていました。
だって、わかんないんでしょ? それなら答え見て何が悪い?
答えを見ても意味がわからない。
それなら、その子は「できない」のではありません。
まだ知らないだけなんです。
実際、こんなことが何度もありました。
数学の問題を一生懸命説明しても、子どもはポカンとしている。
そこで聞いてみます。
「ところで、この問題文の意味はわかる?」
すると、問題は数学ではありませんでした。
日本語が読み取れていなかったのです。
また、別の子は通分の意味が分からず止まっていました。
じゃあ、分数からやろう。
そんなふうに、一つずつ戻っていく。
現学年でわからなければ前の学年へ。
それでもわからなければ、さらに前へ。
必要なら高校生でも小学生向けの教材を使いました。
でも、それをいきなり押しつけることはありません。
一緒に話しながら、「ここがわからないんだね」と確認していった結果として、自然にそこへたどり着くだけです。
だから、嫌がる子はいませんでした。
僕は途中から、「わかって当然」「できて当然」という前提を捨てました。
極端な話ですが、トランプを知らない子に、トランプを使った問題を出しても解けるはずがありません。
知らないだけなんです。
それなのに、「やる気がない」「頭が悪い」「努力不足」と決めつけてしまうのは、少し乱暴だと思います。
勉強が苦手な子を見ていると、「できない」には必ず理由があります。
問題文が読めないのかもしれない。
言葉の意味を知らないのかもしれない。
もっと前の単元でつまずいているのかもしれない。
その理由を探さずに、「もっと頑張れ」と言われても、前に進めるはずがありません。
だから僕は、問題を解かせることよりも先に、
「どこで止まってる?」
を探すことを大切にしていました。
勉強を教えていたつもりでした。
でも今振り返ると、本当に探していたのは、子どもの「できない理由」ではなく、「できるようになる入口」だったのかもしれません。
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