【仕事はこうして属人化する】🖊️諸葛亮孔明が倒れたとき、何が止まったか
【宵の社:縄を綯(な)う】
──何用だ、こんな刻限に。
……ああ、そこを跨ぐな。
今縄を綯うておる所だ。

井戸の釣瓶に使う縄よ。
古うなって毛羽立ってきておる。
切れる前に替えねばならぬからな。
……よいか。
この社の井戸の縄は一本きりだ。
これが切れたら、妾は水を汲めぬのだ。
……ふん。
そういう顔をするな。
手は動かしておっても話はできる。
ときに。
そなた、諸葛亮という男を知っておるか。
……そうだ。孔明よ。
風を呼び、星を読み、扇ひとつで大軍を退けたという、あの男だ。
……あれを軍師と呼ぶのは、少し惜しいのう。
妾に言わせれば、あれは仕組みを作る男よ。
今宵は、その男の話をするとしよう。
先に言うておく。
今宵、妾はあの男を貶さぬ。
掛け値なしに褒めてやる。
……ただし。
褒めれば褒めるほど、
妙なものも見えてくる男でな。
「替えの利かぬ者」というのは、
果たして強みなのか。
それとも──
それが切れたときには、すべてが止まる、
ただ一本だけの縄なのか。
今宵は、その話よ。
聞け。一度きりだぞ。

【壱ノ怪:まず、孔明の凄さを言うておく】
器のことから入ろうか。
諸葛亮は、弩を作り替えた。
一度の仕掛けで、幾本もの矢が飛ぶようにしたという。
山越えの荷を運ぶために、木の牛だの流れる馬だのという妙な名の車を拵えさせた。
陣立てにも型を作った。
……妾には、こう見える。
将の腕前などという当てにならぬものを、なるべく勘定から外そうとしたのだ、とな。
……ここまでは、器用な男という話よ。
妾が唸るのは、次だ。
あの男は、法を厳しく用いた。
身分の上下で緩めもせぬ。
身内でも容赦せぬ。
……ふつう、そういう者は恨まれる。
ところが、あの国の者どもは恨まなんだ。
厳しくされて、それでも
「あの御方は正しい」と言われた。
……分かるか。
これは器用さだけでは届かぬところよ。
なぜそうなったか。
それは己にも、同じ刃を向けたからだ。
北へ攻めた戦で、任せた将が持ち場を失うた。
あの男は、その将を容赦なく裁いた。
そのうえで、監督者である己の位まで罰として下げてくれ、と申し出た。
負けの責めを、上のほうから先に取ったのよ。
それに、な。
死ぬ前には、己の身代を全て書き出して国に差し出しておる。
桑の木が幾株。
痩せた田が幾ばくか。
子らが食うには足りる。
ほかに余分は無い、とな。
国の政をすべて握っておった男が、だ。
調べたところ、完全に書いてあった通りだったというぞ。
……敵のほうにも見ていた者が居る。
あの男が死んで軍が退いたあと。
敵の大将が残された蜀の陣の跡を検分して、こう漏らしたそうだ。
──孔明こそ天下の奇才よ、と。
……よいか。
ここまでは、掛け値なしよ。
妾は、褒めるときは褒める。
あの男は、まことに大したものだった。
……ただな。
ここまで並べておいて、
いささか妙なことを言うようだが。
今数えた凄さは、そっくりそのままあの国の穴でもあったのよ。
──そこが、今宵の話の肝だ。

【弐ノ怪:なぜ孔明は、罰の書類まで自分で読んだのか】
ではその男が実際に何をしておったかを、一つずつ並べてみようか。
法を定め、それを守らせた。
兵を出し、攻め方退き際まで指図した。
食糧の運びようを考えた。
前線の兵に田を耕させ、
兵たちが食う分をその場で作らせた。
武器の造りを一定に揃えさせ、
作った者の名を刻ませた。
古い堰に人を置き、水源を守らせた。
役所の帳面も検めた。
他国との掛け合いも、己で捌いた。
……まだあるぞ。
罰の決裁よ。
ある程度より重い咎めは、すべて己で目を通しておったという。
国を挙げての戦を回しながら、下役の懲罰の竹簡まで読んでおったのだ。
……敵方に、こういう話が残っておる。
使いの者が戻ってきて、
あの男の様子をこう伝えた。
──食は細く、仕事は多い、と。
それを聞いた敵の大将は、こう返したという。
──ならば、そう長くはあるまい、と
……見事なものよな。
刃も交える前に寿命のほうを読みおった。

【参ノ怪:「属人化」という穴 ──己でやったほうが早い】
さて、そなたに問う。
あの男が倒れたら、何が幾つ止まる。
……数えてみよ。
法の運びが止まる。
兵の指図が止まる。
食糧の段取りが止まる。
帳面の検めが止まる。
他国との掛け合いが止まる。
裁きも止まる。
……国の政、ほとんど全部よ。
よいか。
仕組みというものはな、どれだけ精緻に組んであっても、回す者が一人しかおらぬのなら、その一人が生きておる間しか動かぬ。
ここで、そなたはこう言うのであろう。
──なぜ、人に任せなんだのか、と。
……任せられたと思うか。
蜀は小国よ。人が足りぬ。
任せれば遅れる。
遅れれば、そのぶん兵が飢える。
目の前に飢える兵がおるときに、
「育てるために、失敗しても良いからやらせようではないか」と言える者がどれほどおる。
それに、な。
仕事のできる者には、
決まって同じ声が聞こえるのよ。
──己でやったほうが、早い。
──己でやったほうが、間違いがない。
妾は、これを愚かとは言わぬ。
たいていの場合、それは事実だからだ。
……そこがいちばん厄介なのよ。
早くて、正しくて、そのぶん誰も育たぬ。
そして忘れるな。
穴を掘るのは、その男ひとりではないぞ。
周りも、掘るのだ。
あの御方に任せれば間違いない。
あの御方が見ているのだから、
こちらはそれについては考えずともよい。
……楽であろう?
こうして、頼られる側は逃げ場を失うのだ。

【肆ノ怪:五丈原のあと、蜀が引き継げなかったもの】
そして五丈原の戦いよ。
あの男は、陣中で死んだのだ。
死の間際まで後のことを言い置いたという。
誰に何をさせるか。
どう退くか。
……ここは、認めてやらねばならぬな。
蜀は、すぐには倒れておらぬ。
後を継いだ者達は、決して無能ではなかった。
国は、それから三十年ほど保っておる。
……だがな。
よく見よ。
戦は続いた。国も続いた。
……だが、同じようには回らなんだ。
あの男が動かしておったように見事に回り続ける、とはいかなかったのだ。
分かるか。
紙に書き残せるものと、
残せぬものがあるのだ。
法は残る。手順も残る。
誰に何をさせよという指図も残る。
残らぬのは──決める勘所よ。
どこで退くか。
誰の言を退けるか。
今年は出るべきか、控えるべきか。
細かな調整や、タイミングの部分。
それは少なくとも、文字では写せなんだ。

【伍ノ怪:そなたの縄は、何本だ】
……さて。
古い国の話だと思うて聞いておるな。
そうだと思うか。
そなたらの働く場所にも、同じ穴はないか?
あの者しか知らぬ手順。
あの者しか触れぬ帳面。
あの者しか宥められぬ相手。
あの者しか使えぬ道具。
その者が休むと、その日は何も進まぬ、
というやつよ。
……そして、たいていその者はよく働く。
文句も言わぬ。
頼めば引き受ける。
やがて、こうなる。
周りは、その者に聞けば早いと覚える。
聞かれる側は、答えるのが仕事になってゆく。
己の手は休ませぬままだ。それで仕事は片づいてゆくゆえ、誰も困らぬ。
……困らぬから、人も増えていかぬ。
新しい人材も、育たぬ。
上に立つ者はそれを「回っておる」と呼ぶ。
まわりは、こう言うのよ。
──あの人がいてくれて、助かった。
……ふふ。
それは礼のような顔をして実は
「縄が一本しか無い」という報せなのよ。
それに、な。
その者は自由に休めぬ。
休めば、戻った日に倍の仕事が積み上がっておるだけだからな。
──休んだ罰を受けるのが、
その休んだ本人になる。
そういう場所では、その者が倒れて初めて、何が幾つ止まるかが分かるのだ。
そして残された者どもはこう言うのだ。
あの人は本当に凄かったのだ、とな。
……数えるのが遅いのだ、そなたらは。

【宵の社:縄は二本】
話は仕舞いだ。帰れ。
……なんだ。
妾の社はどうじゃ、と申したか。
……ふん。
数えてみよ。
灯を点けるのも、水を汲むのも、戸を閉めるのも、そなたに話を聞かせるのも──
妾ひとりよ。
妾が消えたら、この社は終いだ。
……そう睨むな。
それでよいのだ。
社とは、そういうものよ。
……いや。
今ひとつだけ、増やしておいた。
見よ。
──井戸の縄が、二本になっておるだろう。
今宵、喋りながら綯うたのよ。
……勘違いするな。口ばかりを動かしておると、手が退屈するだけだ。
よいか。
二本目というものはな。
一本目が切れる前にしか、綯えぬ。
切れてしまってからでは、桶ごとはるか下に落ちてしまっておるでな。
……ふん。
それだけよ。

灯を消すぞ。
石段は、下りるほうが長い。
振り返るな。
──悪い夢は、見るなよ。
単話完結の お話を纏めました。 ⇧⇧⇧
