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ぼくものがたり【第29話】疎開からの脱出――命をつないだ絆

鹿教湯温泉街の入り口にバス停があった。
日曜の10時頃になると、
上田駅からの乗客を乗せてくるバスが停車する。

たまに、疎開している子供に面会に来る親がいて、
その場合、そこから降りてくるんだ。

そのバスが来る時間になると、大勢の子供たちが集まった。
バス停の周りは、子供ばかりの人だかり。

みんな、自分の親が来てくれるのではないかと期待を抱いて待っていた。

僕も同じように見に行った。
バスから降りてくる人を必死になって確かめては、毎回落胆していた。

でも、その日やっと、
親父みたいな人がバスからおりてきた。

近づいてきたら、たしかに親父だった。

嬉しくて駆け寄りたかったけれど、
その時の僕にはもう体力が残っていなかった。
嬉しいのに、座ったきり動けない。

ただジーっと、親父を見ていたんだ。

親父は一瞬こっちを見たけれど通り過ぎた。
でも、僕があまりにも見ているので、またこっちを見た。

自分を見つめる、ひどく痩せた子ども。
近づくと骨と皮で、目がギョロっとしている。
しかも、全身がシラミだらけだった。

恐る恐る親父が聞いた。

「おまえ、功か…?」

僕は、ただコクンとうなずいた。

親父はひどく驚いて、

「うわー! 大変だ。中岡さんの言ったとおりだ。
 これじゃすぐ死んじまうぞ!」

と、すぐに東京へ連れて帰ると言ってくれた。

僕は、

「なら、校長先生のところへ行って」

と、親父の手を引いて、よたよたと校長のいる寮まで案内した。


「どうしても連れて帰りたい。見てください、
 こんなに痩せてしまって。このままでは死んでしまいます」

そう親父がどれだけ頼んでも、
校長先生は首を縦には振らなかった。

「東京へは帰せません。
 東京にいたら空襲でそれこそすぐに死んでしまう。
 縁故疎開で、田舎の安全なところに行くなら許します」

校長は断固として、東京に帰ることを許さなかった。

親父は仕方なく、

「なんとかするから、頑張って待ってるんだぞ」

と、一度阿佐ヶ谷に帰った。

そうは言ったものの、家に戻った親父は、一人困り果てていた。
親父もお袋も東京生まれで、田舎に親類縁者はいない。

親父は家に帰って、
「ダメだ…ダメだ…」
と、ヤケになって酒を飲んでいたら、お袋が、
「どうしたの?」って聞いたら、

親父が泣き出したんだ。

お袋はびっくりして、話を聞いた。
親父はそこでやっと、僕のことを教えた。

でも、お袋は冷静だったんだ。

「なんとかいい方法を考えましょう」

と気持ちを整え、考えて、ふと思いついた。

「誰かうちの土地を借りている人で、田舎で生まれた人はいないかしら?
その人に頼んでみてはどうかしら?」

すると、借地人の多川さんという人が、福島から来ていた人だとわかった。
二人は多川さんのところへ行き、拝むようにして事情を話した。

「息子の疎開する先を決めなきゃいけない。
どうか、おたく様の田舎に連れていってもいいという一筆を、
書いてはいただけないでしょうか?」

ありがたいことに、多川さんは言った。

「お安い御用だ。困ったときはお互い様だ」

そして、福島に僕を連れて行くという一筆を書いてくれた。

それから親父は、また北口の友達に頼んで、
何とか汽車の切符を取ってもらい、ふたたび鹿教湯温泉へ向かった。

今度こそ僕を迎えに来てくれた。
縁故疎開の証書を見せ、やっと校長から許可が下りた。

僕は東京に帰れることになった。

でも、汽車は毎日は走っていなかった。
次の汽車が来るまで、駅の近くのお寺で、親父と何日か過ごした。

汽車は、空襲による被害や燃料不足、
車両が燃えてしまったり、故障したりで、
ダイヤは大幅に乱れ、運休する日が続いていたんだ。

それで、お寺にお願いして、本堂に寝かせてもらった。
お坊さんから少し食べ物ももらえたんだ。
親父は涙を流して「ありがたい。ありがたい」と繰り返していた。

僕は動けなかったけれど、
久しぶりに親父と一緒に過ごせて、本当に嬉しかった。
3カ月ぶりに安心して眠れた。
その時の安らいだ感じは、今でも覚えている。

そして1945年(昭和20年)8月3日、
ようやく汽車が来るということで出発し、ホームに着いた。

しかし、ここでも一難あった。

やってきた汽車の車内は、人で埋め尽くされていた。
人であふれてドアが開かないんだ。

とても乗れる状況じゃなかった。

親父は窓から車内の人に、

「子供だけでも乗せてくれ!」

と叫び、僕を窓から車内に押し込んだ。

すると後ろにいた人が、

「息子さんじゃ、親が付いてなきゃだめだ」

と言い、周りの人も、
「そうだそうだ。親父さんも乗らなきゃ」って、

大勢の人が、窓から親父の腕や服をつかんで、
なんとか車内に引っ張り上げてくれた。

親父は「ありがとうございます。ありがとうございます」って、
何度も頭を下げた。

汽車の中はぎゅうぎゅう詰めで、まったく動けない状態だった。だけど、

「これで東京へ帰れる」

と、僕らはとても安堵していた。

汽車は走ったり、止まったりで、なかなか進まなかった。

またいくつか同じような乗り換えを何度もして、
ようやく阿佐ヶ谷に着いたのは、出発の翌日のお昼頃だった。

二日がかりの移動中、親父は僕をずっと負ぶってくれた。
僕は痩せちゃってるから、ふつうよりは軽かったとは思うけど。
長旅だったから相当疲れたんじゃないかなぁ。

途中、食べ物も水だって売ってなかったんだから。

「功、もうすぐ阿佐ヶ谷だよ」

親父の背中で目が覚めた僕は、それを聞いて嬉しくて仕方なかった。

人混みをかき分け、阿佐ヶ谷駅に着いた。

しかし、そこは僕の知っている阿佐ヶ谷ではなかった。
あたり一面が、真っ黒な焼け野原に変わっていた。


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阿佐ヶ谷駅前が消えていた――療養中

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