ぼくものがたり【第30話】阿佐ヶ谷駅前が消えていた――療養中
昭和20(1945)年8月4日。
僕は親父におんぶされて、阿佐ヶ谷の駅に降り立った。
でも、そこから見えた景色は、
僕の知っている阿佐ヶ谷じゃなかった。
駅周辺は一面が焼け落ちて、
建物という建物がすっかり無くなっていた。
白黒映画を見ているように、黒と灰色のがれきが、
ずーっと遠くまで続いていた。
僕は、急に不安になった。
車窓から見えていた、焼け野原で何もなくなった景色は、
新宿や中野だったんだ。
ぜんぶ燃えていた。何もなかった。
疎開に行った日には普通の町だったのに。
まーったくなにも無かったんだ。
ぜんぶ燃え尽きちゃって、
ずーっと遠くまで、真っ黒で、真っ平だった。
阿佐ヶ谷も、同じように燃え尽きたのかと思った。
「うちも、燃えた?」と僕が聞くと、
「うちは大丈夫だった」と親父は言った。
僕は親父の背中で、焼け野原になった川端通りを、力なく見ていた。
家に着いて、僕の姿を見たお袋は、言葉を失った。
それでもすぐに、
「かわいそうに。絶対に元気になるからね」
と僕を抱きしめた。
疎開から帰ってきたばかりの僕は、栄養失調で手足に力が入らなくて、
デレーンとしちゃって、まるで力が抜けた人形みたいだった。
「とにかく痩せちゃってるから、いっぱい食べさせなきゃ」
と親父は言ったけれど、
お袋は、
「いきなりいっぱい食べさせたら、体が驚いて、それこそ死んでしまう」
と言って、少しずつ少しずつ小まめに食べさせた。
出来るだけ栄養があって、消化のいいものを食べさせようと、
当時は貴重だったお米をお粥にして食べさせた。
牛乳があればいいと思ったけれど、
当時は店に行っても売ってる物がなく、牛乳なんて手に入らなかった。
すると親父が、成宗という青梅街道の先のところに、ヤギを飼っている人がいると人づてに聞いて、
「お願いすれば分けてくれるかもしれない」
と、さっそく行ってみた。
タダではなく、物を持っていって交換してもらった。
親父は畑を耕していたから、少しは野菜があったんだ。
親父は毎日、成宗まで通い、
新鮮なヤギの乳を手に入れては、僕に飲ませてくれた。
僕は両親の顔を見て安心して、しばらく畳に寝てゴロゴロしていた。
その時、小学2年生の僕の腕は、2歳の弟の腕の半分もなかった。
うんと細くなっちゃって、骨と皮だけだった。
疎開に行く前は丸々と太った腕だったのに、
たった3か月でそこまで痩せてしまった。
子どもだったし、親父とお袋の看病のおかげで、回復は早かった。
1週間ほどで、立って歩けるようになった。
これも中岡さんのおかげだとお礼をした。
中岡さんが親父にあれだけ強く言ってくれたから、
遠い疎開先まで見に行くことを決めたんだ。
もしあれがなかったら、もう少し迎えに行くのが遅かったら、
「功は死んで帰ってきてたろう」
と、親父は話していた。
疎開では、あちこちの学校で、何人もの生徒が栄養失調で亡くなった。
それは戦後、かなりあとでわかった。
大人たちが話していた。
誰にも言えない戦争の内緒の話のひとつとして。
今でもたまにしみじみ思うんだ。
「よく生きて帰ってこられたなぁ」って。
そこに、色々な偶然と、色々な人の手助けがあったから。
それを思うと、僕は感謝の心でいっぱいになるんだ。
疎開を思いだすと、イジメ、飢え、そして感謝と、
僕の心は、水面に色とりどりの絵の具を垂らしたように、
それはきれいなのか、苦しいのか、どこに焦点を合わせていいのか、
自分でもわからなくなるんだ。
僕は、鹿教湯温泉を、
生涯、二度と訪れることはなかった。
自然豊かで、温泉の質も良く、
本当は、とても良い温泉街だった。
もう一度、行ってみたい気持ちはあった。
けれど、あのときの辛い記憶が、
よみがえってきそうで、
どうしても足が向かなかった。
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疎開からの脱出――命をつないだ絆
