ぼくものがたり【第31話】降伏しない日本――大きな火の鳥B29
僕が、みんなより一足先に、疎開先から阿佐ヶ谷へ戻ってきたのは、
昭和20(1945)年8月4日の朝だった。
そのころはまだ空の上では、
空襲の音がバリバリと響き渡り、すごかったんだ。
空襲警報は毎日、昼も夜も鳴って、
空には何十機ものB29や艦載機が、編隊を組んで現れた。
ある日は、グラマンという艦載機(海上の軍艦から飛んできた戦闘機)が、
胴体の星のマークを光らせながら、何十機もビャーっと真上を飛んでいった。
Vの字に大編隊を組んだ機体が、幾重にも連なり、
空いっぱいに広がっていた。
100機くらいはいたんじゃないかな。
操縦している外国人の顔が見えるんだ。
それくらい低い位置で飛んでいた。
高射砲も発射されず、迎え撃つゼロ戦も来なかった。
「ここは自分たちの空だ」と言っているようだった。
怖いっていう感じはなくて、
まるで映画の中にいるような、高揚した気分だった。
それらの敵機は関東各地に散らばり、
これでもかというほど、とどめを刺すように空襲を繰り返した。
空襲のたびに、お袋は弟の孟弘をおリン婆さんに預け、
僕を背負って防空壕へと走った。
お袋は、空襲をひどく恐れていた。
5月に大空襲に遭っていたからだった。
阿佐ヶ谷がいちばん激しい空襲に見舞われたのは、5月24日と25日。
「山の手大空襲」と呼ばれるその空襲で、
杉並、中野、渋谷、品川など、東京の西の住宅地が広く焼かれた。
杉七小学校も半分が燃え、阿佐ヶ谷も火の海になった。
僕はそのとき、まだ疎開先にいたから、その大空襲は体験していない。
お袋は、あの夜のことをこう話した。
「真夜中に、何百機という大きなB29が空を覆ってね、
すぐ真上を、低空飛行で飛んできて、焼夷弾を落とすんだよ。
それが花火みたいに広がって、弧を描いて、何百個も降ってきたの。
まるで焼夷弾の雨。
まわりじゅうが火の海でね。火の粉で空が真っ赤で。
その火の光が機体に映って、
大きな火の鳥がいっぱい飛び回ってるようだった。
生きた心地がしなかった」
話しているうちに、お袋の顔は青ざめていた。
うちのすぐ近くまで火が迫った。
でも我が家は、奇跡的に無事だった。
ケヤキの森が、家の姿を隠してくれた。
駅のそばに住んでいた同級生たちの家は、みんな燃えてしまった。
小学校の先にある、おりん婆さん名義の貸長屋も燃えた。
もう少し戦争が長引いていたら、このあたり一帯も、
全部焼かれていただろう。
庭は炊き出しの場所になり、
家の一部と、納屋、お神輿の倉庫も、
焼け出された人たちの寝床になった。
皆さん、着の身着のままで逃げてきて、
何も持ち出せなかったと言っていた。
しばらくすると、皆さんは焼け跡に戻って、
自分の家があった場所に、
燃え残った柱やトタン屋根でバラックを作り、暮らし始めた。
阿佐ヶ谷なんて、東京のはずれの田舎だったんだ。
そんな場所にまで、容赦なく爆撃機が飛んでくるなんて、
もう日本は、本当におしまいだった。
山の手大空襲では、皇居の宮殿まで焼けた。
まさか敵が、皇居まで攻撃するとは思っていなかった。
皇居は、日本にとって聖域中の聖域だったからね。
その驚きと怒りと絶望で、
日本人は正気でなくなった。
毎日のように大きな被害が出ていた。
それでも戦争は終わらなかった。
やめるきっかけなんて、いくらでもあった。
「もう限界だ」と思っていた人は、町のあちこちにいた。
でも、「戦争はやめたほうがいい」と口に出せば、
軍や警察に目をつけられた。
どこかに連れて行かれて、そのまま戻ってこない人もいた。
親父が言っていた。
阿佐ヶ谷の先に住んでいた偉い人が、
「この戦争は間違っている。もう終わらせるべきだ」
と言っただけで、馬に乗った軍隊が大勢でやってきて、鉄砲で撃ち殺されたそうだ。
先見の明がある人から殺される。
そんな時代だった。
8月6日、広島に原子爆弾が落とされた。
9日には長崎にも。
しかし、ラジオの大本営ニュースは、
「まだまだこれから」と相変わらず言っていた。
阿佐ヶ谷でも、8月15日の朝まで、空襲警報が鳴っていた。
でも、15日の朝から、ピタっと止んだ。
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