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ぼくものがたり【第38話】農地改革――もらえた土地を返した理由

親父の本来の仕事は、百姓と植木屋だった。
だから、戦争が終わるとすぐに畑に向かった。

しかし、肝心の畑は空襲の爆弾で土が吹き飛ばされ、
穴だらけで使い物にならなくなっていた。

親父は、「命があるだけでも良かった」と、
ボコボコの畑を見渡しながら呟いた。

そして「しょうがねぇ」とスコップを手にした。
それから手押し車で何度も土を運び、穴を埋めた。

すっかりパサパサになった土に肥えを入れ、耕し、
なんとか種が植えられる状態に戻していく。

農具を積んだリヤカーを引いて、
阿佐ヶ谷から関町まで通い続けた。

種を植えても、すぐに実がなるわけじゃない。
作物ができるまで、もっともっと時間がかかった。

あちこちの畑が同じような状態だったから、
戦後しばらくは本当に食べ物がなかった。

そこへ、戦地から兵隊たちがいっせいに帰ってきた。
その数、600万人以上。

町は人であふれかえったのに、
配給はほぼ止まったまま。

商店に行っても、食べ物はまったく売っていなかった。
東京から食べ物が消え、餓死する人も増えた。

親父は、なんとか食料を手に入れようと、
うちにあった着物や置物などの、高価なものを背負って出かけた。

切符を買うため長い列に並び、
人でいっぱいの電車を乗り継ぎ、
埼玉の川越まで何度も通った。

農家を回り、持っていった品と米や味噌を交換してもらった。

しかし時がたつにつれて、食糧難はさらに深刻になっていった。
高価な着物でも、もらえるのはサツマイモ2、3本だけ。

帰ってきた親父は、「情けねぇ。悔しい」と、
何度も繰り返していた。

それでも、2、3本でも分けてもらえたことは、
ありがたく、助かったんだけどね。
それほど、なにもなかった。

だから、寝る間を惜しんで畑を耕し続けた。
そうして少しずつ収穫できるようになり、
親父が作ったイモやカボチャで、
我が家はだいぶ助かった。

しかし、戦後3年目のことだった。
親父はその畑を手放した。

当時、マッカーサー率いるGHQが始めた農地改革――
地主が自分で耕していない土地は、
国が買い上げて耕していた人に安く売るという制度だった。
その方が、小作人のやる気も高まり、
収穫も増えるだろうと国は考えた。

親父が耕していた関町の畑は、
中田さんという人から借りていた土地だった。

制度のおかげでその土地を手に入れられたが、
親父はこう言って返した。

「借りたものは返す。助かったんだ。
芋も野菜もできて。それは中田さんのおかげだ」

その後、その土地には立派なビルが建った。
中田さんは「これも喜代松さんのおかげだ」と言ってくれた。

親父は、苦しい時に畑を貸してくれた恩を、
決して忘れなかった。

僕は、あの親父の生き方を、
今でも誇りに思っている。

余談だけれど、
土地をもらったことで地主と仲たがいし、
その後の関係がこじれた人も少なくなかった。

農地改革で得た土地に家を建てるにも売るにも、
隣地の持ち主の承諾が必要だったからだ。

承諾が得られず家を建てられず、
そのまま空き地になった土地もある。

こうしたわだかまりは解けぬまま、
80年近くたった今も、町の片隅にひっそりと残っている。


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