ぼくものがたり【第4話】お袋・かつと火事騒動
お袋、かつは、明治36(1903)年生まれで、
中野の鍋屋横丁で育った。
鍋屋横丁は、阿佐ヶ谷から青梅街道を東へ行ったにぎやかな商店街。
堀之内妙法寺への参道口で、参拝客でごった返していたんだ。
当時は「江戸一の厄除け」として、浅草に匹敵するほど、
人気があったんだよ。
中野駅(中央線)や都電(杉並線)が開通したことで、東京中から参拝客が押し寄せていたんだ。
参拝客が草もちを食べて一休みするお店や、
洋食屋、デパートのような呉服店、その他、ハイカラなお店が続き、
「中野銀座」と呼ばれていた。
お袋は、そんな活気のある町の中で育った。

そして、お袋の実家も中野の旧家だったんだ。
お袋の父親とお兄さんも、議員をしていた。
だから、子供のころから言葉遣いや所作に厳しくしつけられたし、
来客も多いから、誰に対しても感じのいい振る舞いが身についていた。
でも、三女だったからか、自由なところもあった。
お袋は、みんなに内緒でたばこを吸っていた。
僕はそれを知っていた。
親父は「女がたばこを吸うなんてとんでもねぇ」と思っていた。
親父は吸っていたけどね。そんな時代だった。
たまにみんなが留守の時に、
お袋は親父の煙管を失敬してたばこを吸っていた。
長いパイプの先にたばこの葉をつめて、
「ふーっ」と一息つく。
煙管片手に、まるで浮世絵の女の人のようなポーズをしていた。
そして、
「お父さんには内緒よ」
と僕に笑った。
たまに女中のタエさんが、
「かつ様~、旦那様がお帰りですよー」
と飛んできた。
慌てて火鉢の中に吸い殻を埋めて、
窓を開けて二人して団扇で煙を逃がしていた。
僕にはその動きがとても面白くて、思わず笑って見ていた。
タエさんは、お袋が嫁いで来るときに一緒に連れてきた女中さんで、
とても優しくて頼りになった。
家に客人が来ると、いつも応対するのはお袋だった。
来た人みんなにお茶を入れ、笑顔でもてなした。
その人数が多ければ多いほど、元気に動いていた。
口数の少ない親父に代わって、お袋はよく喋ったし、
客人の話にもよく笑った。
二人は親のすすめでお見合いをし、結婚した。
「お互い、そんなに話をしたわけじゃないのよ」
お袋は、そんなふうに笑っていた。
でも、子供を失った悲しさを、
一緒に乗り越えてきた強い絆があったんだろう。
お囃子の練習も、畑仕事の合間も、
いつでも、親父のそばにはお袋が寄り添っていた。
そんなある日──
思いもよらない出来事が、ふたりと家族を襲った。
火事騒動
僕が生まれて2か月が過ぎた、お正月の終わりごろのこと。
家の中には、まだ正月の余韻が残っていた。
お袋は、寝ている僕の横で針仕事をしていた。
親父は縁側に座って、お囃子に使った道具を一つひとつ丁寧に磨いていた。 冬の陽射しはやわらかくて、時間がゆっくり流れていた。
そんな長閑な昼下がりだった―― 突然、外から大きな叫び声が響いた。
「火事だーっ!」
それと同時に、けたたましくガンガン、カンカンと、
鍋や釜を叩く音も重なった。
親父は縁側から跳ねるように外へ飛び出し、
「火事はどこだー!」
と叫んだ。すると、
「ホウジマさんとこだー!」
と、塀の向こうから返ってきた。
ホウジマさんはうちからほんの数軒先。
見上げれば、ホウジマさんの家から大きな炎が立ち上り、
藁や木が焼け焦げるにおいが鼻を突いた。
「こりゃ大変だ…、行ってくるぞ!」
親父はバケツをつかんで、すぐに駆け出した。
当時は、まだ消防車がすぐ来る時代ではなかった。
火事が起きると、金物を叩いて周囲に知らせた。
そこらにあるバケツやヤカンなど、
とにかく音の出るものをバンバン叩いたんだ。
それを聞いて、近所の人たちがバケツや鍬を手に駆けつけた。
町には「消防団」があって、親父もその一員だった。
男たちは懸命に水をかけて、消火にあたった。
人海戦術で、ようやく火は鎮まったものの、
ホウジマさんの家は全焼してしまった。
それでも、火が他の家に燃え移らなかったのは、
不幸中の幸いだった。
消火活動が終わり、親父は火事場のそばで、
消防団の仲間たちと酒を酌み交わしていた。
いつも人が集まれば宴会になった。
「でかい火だったなぁ」
「とにかく消えてよかったよ」
誰もが安堵の笑みを浮かべていた。
しかし、その時、また、ガンガンと大きな音がして、
「火事だー!火事だー!」と、大きな叫び声。
「今度は、喜代松さんの家が火事だーっ!」
声の先を見れば、うちの屋根の上で、
パチッ…パチッ…と赤い火の粉が跳ねていた。
次の瞬間、ゴウッという音とともに、炎が立ち上がった。
さっきまで笑っていた大人たちの顔が、一気に青ざめる。
飛び火だった。
当時は、どの家も藁ぶき屋根だった。
ホウジマさんの家から舞い上がった火の粉が、
うちの屋根に落ちて、静かにゆっくりと、くすぶっていたんだ。
それが時間差で、突然燃え上がった。
親父は、一目散に家へ駆け戻った。
そのとき家にいたのは、お袋と僕だけ。
お袋は、消火の知らせを聞いて、ほっとして眠っていたんだ。
でも、外から聞こえた、
「喜代松さんの家が火事だーっ!」
という叫び声に、とにかく驚いて、飛び起きたんだ。
そして僕を胸に抱いて、裸足のまま外へ飛び出した。
お袋の心臓は爆発しそうにドキドキしたそうだ。
お袋は僕をしっかりと抱いたまま、とにかく僕を守らなくてはと、
少しはなれた借地人の家まで走った。
「お願いですから、この子を預かってください!」
そう言って僕を預けて、また家まで戻ったんだ。
幸いにも、消防団の人たちはまだ火事場にいた。
またみんなで、僕の家の屋根に水を浴びせながら、
燃えている部分を必死で下に切り落とした。
火はすぐに鎮まり、どうにかボヤ程度で済んだ。
火が収まると、また自然に酒盛りが始まった。
「飛び火は恐ろしいなぁ」
「酒盛りしていて良かったよ」
「そうだよ。みんな帰ってたら、それこそ大変だった」
お袋は、ひとりひとりにお酌をして回った。
「ほんとうに、ありがとうございました。
おかげで助かりました。
皆さんがいなかったら…。
どうぞ、ゆっくり飲んでくださいね」
そう言いながら、お袋の手はまだ震えていた。
この後から、お袋は心臓が少し弱くなってしまった。
たまに思い出してドキドキするようになり、
それが持病になっていったんだ。
またこの火事騒動で、
藁ぶき屋根はいちど火が付くと、
どんどん燃えちゃうってことがよくわかった。
それから、僕の家は藁ぶき屋根をやめ、
瓦屋根に変えた。
このあたりの農家は、どこも藁ぶき屋根だったけれど、
それ以来、周りの家も瓦屋根に変えていった。

この火事をきっかけに、わが家の藁ぶき屋根は、瓦屋根へと姿を変えた。
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