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ぼくものがたり【第22回】小学1・2年生も、ついに集団疎開へ

東京大空襲があった3月。
いよいよ窮地に立たされた政府は、
3年生以上だった疎開児童の対象を、
1年生にまで引き下げた。

4月から2年生になる僕も、
学童疎開に行かなくてはならなくなった。

その頃には、阿佐ヶ谷周辺にも
爆弾が落ちるようになってきた。

昭和20年(1945年)4月13日から14日にかけて、
杉並区の高円寺や馬橋一帯が、
大空襲の被害を受けた。

阿佐ヶ谷からも、
真っ赤な炎が立ちのぼるのがはっきり見えた。
火の粉がこっちまで飛んでくるようで恐ろしかった。

B29は、
下町の大空襲のエリアを超えて、西に向かってきたんだ。
東京中を燃やすつもりだった。

もう、家のすぐ真上を、B29や艦載機が、
低空飛行でビャーっと通りすぎていく。

そして、ばらばらと爆弾を落としていくんだ。

爆弾の一つ一つが、空中でパカッとわれて広がり、
細かい焼夷弾が広がって降り注ぐ。
花火みたいで、それはそれはきれいだった。

その下には民家がたくさんあったんだ。
この時は、下町の大空襲の時に、
消火活動をしようとして多くの人が亡くなったことを知っていたから、
みんな消火は考えずに、すぐに逃げた。

だから、亡くなった人の数は、
下町に比べるとうんと少なかった。

また、機銃掃射も頻繁にされるようになった。

低空で飛んできて、動いているものを見つけると、
ダダダーッと火を吹いて撃ってくる。

まるで草をなぎ払うように、
銃弾を容赦なく浴びせてきた。

建物にいても、畑にいても、道端にいても、
見つけたら撃ってきた。

多くの人、子どもまで狙われて、殺された。

すべての攻撃が、無差別爆撃となったんだ。

大きな爆弾が民家や防空壕を直撃して、一家全滅、
そんなことも、たびたび起きていた。

いつ死んでもおかしくない状況だったから、
「東京は危ない。せめて、子どもだけでも助かって欲しい」
と、誰もが思うようになった。

また、食料事情も悪くなり、
日々の食料調達にも苦労していた。

子どもたちがみんな痩せ始めてきたので、
「田舎に疎開に行けば、食べ物には困らないだろう」
と考えるようにもなった。

そんなひっ迫した状況だったから、
国は、全学年を疎開させろと通達を出した。

それを受けて、先生たちは大急ぎで、一人一人の家をまわったんだ。

そして、
縁故疎開にするか、集団疎開にするか、
大至急決めるようにと催促してきた。

僕の親父は阿佐ヶ谷生まれ、
お袋も東京の中野区だから、田舎の親類縁者はいない。

だから僕は、集団疎開を選ぶしかなかった。

その決定から、準備は急ピッチですすんだ。

学校では、すぐに疎開先の説明会が開かれ、
身体検査も始まった。

行き先は、信州・長野の鹿教湯(かけゆ)温泉。

3年生から6年生がすでに疎開しているところへ、
僕たちも加わることになった。

用意したものは、

枕とか布団一式、服、下着、
防空頭巾、生活用品の食器、
タオル、歯ブラシ、針と糸、
下駄と運動靴、教科書、鞄など。

それらの持ち物を、大きな籐箱に入れ、
一足先にトラックで疎開先に運ばれた。

そして、昭和20(1945)年5月8日。

僕は集団疎開へと出発した。

阿佐ヶ谷駅は、
子どもを見送る大勢の人たちでいっぱいだった。

車両は、疎開の学童専用になっていた。

でもそれは、前の年に見た、
上級生の疎開出発とはまったく違っていた。

今回は、みんなが不安でいっぱいだった。

「もう会えないかもしれない」

そんな思いで、泣いている母親も多かった。

「万歳、万歳、万歳!」っていうのが、
虚しかった。

僕も車窓から、親父とお袋に手を振った。
お袋も泣いていた。

僕は、列車が遠ざかって、見えなくなるまで、
駅のホームを見ていた。

親父やお袋が見えなくなって、
僕たちの目に入ったものは、下町の悲惨な焼け跡だった。

町は真っ黒に焼かれて、何にも無くなっていたんだ。
だだっ広い黒い焼け野原が、どこまでも続いていた。

みんな驚いて見ていた。
ここまでやられていたとは、思ってもいなかった。

列車は、学童たちのそんな心も載せて、
キリキリと音をたてて、重たく走っていた。

そしてこの日が、小学2年生の、
僕の、悲惨な疎開体験のはじまりだった。


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疎開先での地獄のイジメ――子どもだって戦っていた

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東京大空襲――真っ赤っか。

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