ぼくものがたり【第20回】空襲じゃないのに、町が消えた――建物疎開
1944年(昭和19年)の年明け。
東京では、「建物疎開」というものが始まった。
“疎開”と聞くと、
田舎へ避難することを思い浮かべる人もいるかもしれない。
けれどこの「疎開」は、そうではなかった。
戦争による被害を少しでも抑えるために、人や建物を分散させる、
という意味で建物に使われた言葉だった。
でも、建物は動かせない。
だから、住んでいた民家や商店が、
突然の命令で取り壊され、空き地が作られることになった。
対象となった家は、問答無用でぶっ壊されたんだ。
阿佐ヶ谷でも、駅を中心に、東西南北に十字の太い線が引かれた。
その線にかかった家は、すべて取り壊すと決められた。
実際にその「十字の線」がどこを通っていたのか、
昭和当時と現在の地図を見比べてみると、町の変化がよくわかる。

阿佐ヶ谷駅を中心に、東西南北に引かれた黒い線が、
防火帯のために家を壊された区域を示している。
※『新修 杉並区史・下巻』(杉並区役所、昭和57年10月1日発行)より引用。

現在の「中杉通り」や区役所周辺の広い道は、この建物疎開によって生まれた。
※『杉並区図書館マップ(令和5年度版)』をもとに筆者作成。
駅の周辺は、
線路をはさんだ両側30メートル以内は、すべて取り壊された。
店舗も住宅も関係なく、
屋根のひさしが少しでもはみ出していたらアウト。
「一週間以内に立ち退きなさい」と命じられ、
ほんのわずかなお金が渡された。
けれどそのお金も、引っ越し代であっという間になくなってしまった。
荷物を運ぶにも、人や馬を頼まなければならず、
結局手元には何も残らなかったそうだ。
親父が所属していた警防団も、この建物疎開に協力させられていた。
住んでいる人の目の前で、柱に縄をくくりつけ、
みんなで引っぱって、家を崩していく。
阿佐ヶ谷駅のあちこちで、そんな光景が見られた。
お店も、家も、跡形もなく姿を消していった。
僕は、北口で別の警防団が作業している場面を、
お袋と一緒に見たことを覚えている。
壊されていたのは、大きくて立派な家だった。
大勢の人たちが、がやがやと騒がしく、
「せーの、せーの!」と大声で声を合わせ、家を崩して、
使えそうな柱や、トタン屋根の板などは、次々に運び出されていった。
みんな埃だらけで、女の人もたくさん手伝っていた。
そのころは、男の人の多くが戦争に行っていたから、銃後の守りとして、
女の人たちも力仕事を担っていたんだ。
壊されている家の人らしき女性が泣いていて、
僕はじっとその様子を見てしまった。
するとお袋が、「かわいそうでしょ。見ちゃダメよ」って。
そう言って、足早にその場を通りすぎた。
「運が悪かったと思うしかないのかね」
そんなふうにつぶやいた。
親父も、あんなふうに人の家を壊したのかもしれない。
僕だったら、あんな役目、やりたくないなぁと思った。
けれど実際には、壊す作業を手伝った人には、
雑炊やお酒の引換券が配られたそうだ。
駅前の、母とよく通った店も、次々に姿を消した。
線路の両側の建物も、ぺしゃんこにされて空き地になった。
空襲で焼けたわけじゃないのに、まるで町の一部が消えてしまったみたいだった。
好きだった食堂も、おもちゃ屋も、もう、どこにもなかった。
がらんとしたまっすぐな空き地が、町を貫いていた。
言葉にならない、寂しさがこみ上げた。
爆弾じゃなく、“命令”で町が壊されたことが、
子どもながらに悲しくてたまらなかった。
のちにこの空き地は、
青梅街道から早稲田通りへとつながる「中杉通り」として整備された。
他にも環七、荻窪駅前の広い通りなど、現在の杉並区の主要な道路の多くが、この悲しい歴史を経て作られたんだ。
もし、通った時はこの話を思い出して欲しいな。

空商店街の西側を強制的に立ち退かせて 更地化し、延焼を塞ぐ防火地帯としていました。
※引用:パールセンター商店街 歴史資料室より(http://www.asagaya.or.jp/index.htm)
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