ぼくものがたり【第14回】親父の畑に爆弾が落ちた――空襲のはじまり
昭和19(1944)年11月1日の僕たちの遠足以降、
つまり、B29がはじめて東京上空に現れてから、
一気に空襲警報が増えたんだ。
区役所からの大音響の、
「ウーーーー」というサイレンが、毎日のように響き渡り、
そのたびに防空壕へ避難しなきゃいけなかった。
親父は畑に出かけられず、イライラしていた。
戦争が始まる前から、親父は杉並区のとなり、
練馬区の関町というところに広い畑を借りていた。
大根、ニンジン、サツマイモ、ジャガイモ……
いろんな作物を育てていた。
阿佐ヶ谷からリヤカーを引いて、毎日通っていた。
僕もよく親父と一緒に畑へ行った。
行きはリヤカーに乗せてもらって、
帰りは、収穫した野菜をいっぱい積んだリヤカーを押しながら、
ゆっくり帰ってきた。
でも、ここのところ、
親父が出かけようとすると、決まって空襲警報が鳴った。
「これじゃ畑も見らんねぇ」と、ぼやく日々が続いた。
そのころはまだ、警報だけで空襲にはならなかった。
B29が現れても、上空を通り過ぎるだけで、
爆弾を落としていくことはなかったんだ。
11月24日も、朝から空襲警報が響いていた。
親父は、
「これ以上放っておいたら、作物がダメになっちまう。
爆弾も落としていかないし。行ってくる」
と言って、リヤカーを用意して、門のところまで出てきた。
するとお袋が、血相変えて飛び出してきた。
「こんなにサイレンが鳴ってるんだから、出かけないで!
とにかく今日だけは、出かけないで!」
お袋は、リヤカーにしがみついて、必死に親父を止めた。
「なら……やめとくか」
親父は、そう言って引き返した。
親父が、お袋の言葉で、畑へ行くのをやめたなんて、
めずらしいな。と僕は思った。
それだけ、お袋の言い方がふだんと違ったんだ。
お袋は感のいい人だったから、
親父も、なにかあるかもしれないと思ったんだろう。
そんなお袋と親父のやり取りのあと、
けたたましい空襲警報に、
高射砲の、ドンッ、ドンッっていう音が加わった。
空を見上げると、
はるか上空、1万メートル付近を飛ぶ、B29の大編隊。
太陽の光を反射して、幾十もの機体が銀色に輝いていた。
まるで、大きな銀色の十字架が、いくつもいくつも、
ゆっくりと空を動いているようで、恐ろしいと言うよりも、
壮観、圧巻、って感じ。
みんな呆気に取られて空を見上げていた。
「すげぇや……」
その光景は、どこか神々しい感じさえした。
やがて、その大編隊は、悠々と阿佐ヶ谷上空を通り過ぎていった。
迎え撃つ高射砲は、そのはるか下で、
パン、パン、パンと白い煙出して、小さく破裂するだけ。
一発も届かなかった。
誰もが、
「全然当たらないじゃないか…」
「あんなのが来たら、たまったもんじゃないぞ」
と、愕然としていた。
その日、親父の畑に爆弾が落ちたと言う知らせを聞いた。
お袋が止めていなければ、
親父は爆弾の犠牲になっていたかもしれない。
お袋の感は当たっていたんだ。
翌日になって、親父と見に行ったら、
そこに畑があったのか分からないほど、大きな穴があいていた。
たった一個の爆弾で、土がえぐられて、
100メートル四方に飛んでいた。
「爆弾ってのはすげーなあ」と、親父が言った。
爆弾は流れ弾だった。
関町の畑へ向かう途中の井草に、中島飛行機の工場があった。
中島飛行機は世界でも有数の、民間の航空機メーカー。
アメリカにとって空爆の主要第一目標だった。
そこが狙われて、落とされた爆弾の流れ弾が、親父の畑に落ちたんだ。
日本軍も、攻撃があるだろうと、わかっていたけれど、
飛行機の製造を止めるわけにはいかなかった。
戦局は苦しく、戦闘機が足りなかったから稼働を続けていた。
杉並区の隣の武蔵野市にあった武蔵工場では、
勤労動員の中学生たちも働いていて、たくさんの学生が亡くなった。
畑は、不発弾があるかもしれないと、その後、立ち入り禁止となった。
付近では1メートル以上の大きな不発弾が、そっくりそのまま残っていた。
B29は高高度から爆弾を落とすから、命中率が低かった。
風に流されたり、目標を外れたりした爆弾が、
近くの住宅地や商店街にたくさん落ちた。
また、使いきれなかった爆弾を捨てて、機体を軽くするため、
あちこちに落としてゆくこともあった。
それで、罪のない一般市民が亡くなり、
「B29は恐ろしい」と言う記憶が刻まれた。
当時はまだ、空襲の矛先は「軍の施設」だった。
しかし、少しずつ、空襲の性質が変わり始めるんだ。
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空襲警報と防空壕・灯火管制
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遠足――初めて東京の空にB-29が来た日
