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ぼくものがたり【第54話】阿佐ヶ谷にもチンチン電車があった

杉並区にも、路面電車が走っていた時代があった。

荻窪駅の南口から、青梅街道沿いに、
阿佐ヶ谷、高円寺、中野を抜けて、新宿まで。

大正時代に始まったそうで、
「電車が来ますよ」の知らせを、
車掌さんが、鐘のベルを手で引いて知らせていた。

だから、町の人たちは親しみをこめて、
「チンチン電車」と呼んでいた。

お袋の実家は中野の鍋屋横丁にあって、
阿佐ヶ谷から行くには、チンチン電車がいちばん便利だった。

だから、僕もときどき一緒に乗って遊びに行った。

これが当時の路線図。

画像:昭和17(1942)年頃の路線図。
赤いラインが中央線、その下を走る青いラインがチンチン電車。
※『歴史データで読み解く杉並の鉄道』中村建治(メディア・パル)より引用


戦前は単線で、青梅街道の真ん中より少し北側、
道路の上にレールが敷かれて、車と一緒に走っていた。

電車は背の高い一両編成で、乗り場にホームもなかった。
チンチン電車が来ると、道路を走ってる車は止まってくれる。

お袋は車に向かって「すみません」なんてお礼を言いながら、
僕の手を引いて電車に乗りこんだ。


電車の中には、運転手さんとは別に切符の売り子さんがいた。
若いお兄さんが「鍋屋横丁までね」と、笑顔で切符をくれた。
顔なじみになるくらい、お客さんは少なかった。

たまに窓から友達が歩いてくるのが見えて、
僕が手を振ると、面白がってずーっとついてきた。

電車の方が遅いから、追い越されて笑われた。
僕は恥ずかしくて、「もう少し早く走れないのかなぁ」
なんて、お袋に言っていた。

途中には車庫があって、車両の入れ替えがあるとそこで長く停まる。
長いときは、1時間も待たされた。

でも、そのあいだ、近くの駄菓子屋に連れていってもらえるのが楽しみだった。
あの時間も、僕にとっては貴重だった。

窓からゆっくりと風景が見られるのも好きだった。
まだ青梅街道には高いビルはなくて、色々な商店が並んでいた。

荷物を満載したリヤカーも多くて、
自転車につなげて、人力でたくさんの荷物を運んでいた。

そんな青梅街道の真ん中を、
チンチン……という音を鳴らしながら、
背の高い一両電車がポコンと走っていた。


でも、戦争がはじまって、空襲で車両のほとんどが焼けてしまった。

戦後は本数が少ないなか、
中野や新宿の闇市に、買い出しに行く人が押し寄せて、
いつもぎゅうぎゅう詰めだった。

やがて杉並や中野の人口が増えるにつれ、電車の本数も増えていった。
最盛期には、1日6万人もが乗ったそうだ。


しかし、復興が進むと自動車やトラックの数も増えて、
今度はチンチン電車が、道路をふさいで渋滞の原因になった。

その後、青梅街道の真下に地下鉄・荻窪線(現在の丸ノ内線)が通ることになり、

1963(昭和38)年、チンチン電車は廃線となった。
時代の流れとはいえ、とても寂しかった。


僕の記憶では、青梅街道とチンチン電車は、いつもセットになっている。
そこにお袋がいたり、紙芝居のおじさんが自転車を押してきたり。
進駐軍のお菓子を目当てにジープを待った時も、すぐ前を走っていた。


夕暮れ時、関町の畑からリヤカーを引いて帰るとき、
親父と僕の長い影が、チンチン電車の横に並んでいた。

僕が変な動きをしては、影を見て、二人で笑っていた。


画像:昭和30年代、複線になって活躍していたころのチンチン電車。
※NHKアーカイブス「東京都交通局(都電)杉並線」より引用https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009230101_00000

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「放射能はうつる?」阿佐ヶ谷に来た被爆者たち

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