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ぼくものがたり【第55話】「放射能はうつる?」阿佐ヶ谷に来た被爆者たち

広島と長崎に、アメリカの原子爆弾が落とされたのは、
昭和20(1945)年の8月6日と9日だった。

はじめのころは、
「ものすごい爆弾が落とされた」
「一瞬で町が消えたらしい」
「熱と光がすごかったんだってさ」
それくらいの噂しかなかった。

その後すぐに日本が降伏して終戦。
戦後のごたごたで、東京の人たちは、
広島や長崎のことを気にかけている余裕もなかった。

終戦から2年くらいたつと、
「あの原子爆弾は、なにかおかしいらしい」
「助かったはずの人が、あとから死んでゆくらしい」
そんな話を聞くようになった。

同時に、
「放射能」という、聞きなれない言葉も耳に入ってきた。
意味のよくわからないその言葉に、
みんな不安を抱くようになった。

そして、
「なんだか“放射能”とやらで、
原爆を受けた人のそばに近づくと、
うつるらしい。絶対に近寄るな」
そんな噂が広まったんだ。

今思えば、まったくのデマだったんだけど、
そのときは、誰もが本気で信じていた。

当時はまだ、僕たちの周りでは、
「原爆症」という言葉は知られていなかった。

なぜ、だいぶ時間が経ってから髪が抜けたり、
体から血が出たり、原因不明で亡くなる人が出るのか、
誰にもわからなかった。

あとから聞いた話だけれど、
GHQのかん口令がひかれていて、
その理由を知る由もなかったんだ。


だから、
広島から逃れて、東京に流れてきた人たちは、
ひどい扱いを受けた。

戦後、僕の住んでいた阿佐ヶ谷にも、
親戚を頼ってやって来た人がいた。

でも、広島から来たと聞いただけで、
周りの人たちはみんな顔をしかめて、
「向こう行け、近寄るな」
そんなふうに追い出してしまった。


ある日、
僕とお袋が出先から帰ってきたときのこと。

家の前の道に、
やせ細った女の人が立っていた。
寒い日だったのに、
薄汚れた白いシャツを一枚着ているだけだった。

空っぽのヤカンを両手で持って、
小さな声で、
「水、もろうてもええですか?」
そんなふうに言った。

ここらへんでは聞かない訛りでね。

お袋は、驚いていた。
広島の人ではないか、と思ったんだ。

しばらく迷っていたけれど、僕に向かって、小さな声で、
「功っ、ちょっとあっち行ってなさい」
って言ったんだ。

僕は何事かと怖くなって、木の陰に隠れて、
こっそりとその様子を見ていた。

するとお袋は、その女の人のヤカンを受け取り、
急いで井戸に行って水を汲み、
ヤカンいっぱいに水を入れて、渡してあげた。

女の人は、
「ありがとうございます」
とだけ言って、
頭を下げて、すぐに去っていった。

その語尾の柔らかさも、
東京の言葉とは違っていた。

お袋は、
「ハーッ」
と、思いきり息を吸った。
移るかもしれないから、
ずっと息を止めていたみたいだった。

それから、
手をよく洗っていた。
僕にも、手を洗うように言った。

そして、
「誰にも見られてなかったわよね」
そう言って、
何度も外を見回していた。
まるで、
悪いことでもしたかのようだった。

お袋も、
気の毒だとは思っていた。
でも、放射能は移る、
そんな話を信じていたからね。
しかたがなかったんだ。


あの人のように、
「もらい水」をしに来る人は、
ときどきいた。

放射能の噂が広まると、
どこから来たのかわからない人に対して、
ピシッと戸を閉めてしまう人もいた。

それまでは、
逃げてくる人に、
みんな優しかったのに。

追い出された人たちは、
水を求めて、
どこかの川っぷちへ行った。

ここらへんでは、
玉川の川っぷちに集まって、
拾ったガラクタで、
掘っ立て小屋を建てて暮らしていた。


その頃は、
まだ「被爆者」という言葉もなかったけれど、
自分が被爆したってことは、
絶対に人には言えなかった。

「原爆でやられた」と口にしただけで、
周りの人は、
まるでオバケでも見たように
遠ざかっていった。

広島や長崎じゃ暮らせなくなって、
ようやくの思いで東京まで逃げてきたんだろう。
親戚を頼って、
命からがらたどり着いたのに。

被爆者ってわかると相手にされなかったし、
被爆者が死ぬと、
みんなが気味悪がった。

被爆者の人は、
可哀そうとしか、
言いようがなかった。


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