ぼくものがたり【第57話】石鹸作りと、阿佐ヶ谷七夕まつり
僕が中学生になるまでの五年間、
食べ物も衣料品も、生活に必要なものは何もかも足りなかった。
やがてアメリカの慈善団体や、アメリカ、カナダ、中南米などに暮らす日系人から、
食料や粉ミルクなどの援助物資(ララ物資など)が届くようになった。
遠く海を越えたところに暮らす日本人や日系人たちが、食べるものに困っていた日本を助けてくれたんだ。
自分たちの生活でさえ大変なはずなのに、祖国にいる僕たちを援助してくれたんだ。
それで、小麦粉や脱脂粉乳を使った給食も始まった。
これで日本の子供たちはかなり助かった。
少なくとも餓死する子はだいぶ減って、
最低限の食料は、確保できるようになってはきたんだ。
でも、暮らしの不便さは変わらなかった。
日用品はどれも高価で、石鹸も、簡単には手に入らなかった。
なので、石鹸は、近所の人たちで協力し、うちの庭で作っていた。
材料は、何度も使って茶色くなった油。
少しずつ食用油は手に入るようになった。
限られた材料で作れるごちそうといえば、
天ぷらや揚げ物だったからね。
そんな料理に使った古い油を、それぞれが持ち寄ってくる。
家族そろってやって来る人も多かった。
大きな鍋を用意し、火を焚いて、
まるでバーベキューでもするように、作業が始まった。
「功ちゃん、春から中学校だって?」
そんな世間話をしながらね。
持ち寄った油を、大きな鍋に入れる。何回も揚げ物に使って、どろりと茶色くなった古い油。
それに苛性ソーダと水を加えて、長いヘラでよくかき回す。
交代で混ぜるうち、だんだん固まりはじめる。
「熱いから鍋から離れて!」
そんな声も飛び交いながら、大人も子供もにぎやかに過ごした。
そうして茶色く固まったものを、容器に入れて丸一日風通しの良いところに置いて乾燥させると、泡立ちのいい石鹸ができあがる。
香りはなくても、洗濯も炊事も大きく助けてくれる、貴重な石鹸になったんだ。
油を持って来られなかった人にも分け合った。
戦後は足りないものばかりだから、みんなで助け合った。
戦時中、「隣組」として組織されていた近所の人たちは、
戦後になると、町内会などの地域の集まりとして、
また支え合うようになった。
かつては、家の明かりが漏れていないかを監視し、
戦争に協力するための役割も担っていた。
けれど戦後は、ようやく本当の意味で、
暮らしを支え合う集まりになっていった。
回覧板も、配給や金属回収、勤労奉仕といった命令から、
入学式や成人式の知らせ、バザーや七夕まつりの案内など、
楽しい便りに変わっていった。
石鹸作りの日のように、町は少しずつ笑顔を取り戻していった。
焼け跡の片付けが終わり、新しい家も建ちはじめた。
昭和29年、僕が高校2年生のころ、
阿佐ヶ谷パールセンターの七夕まつりが始まった。
最初は各店が、笹飾りを出すだけの素朴なものだった。
それでも「まつり」と聞いて、僕も友達と夕涼みに出かけた。
色とりどりの短冊が風に揺れ、きれいだった。
あれから幾度も夏を重ね、七夕まつりは年ごとに規模を大きくして、
阿佐ヶ谷の、夏の風物詩として根付いていった。
あのとき芽生えた笑顔と賑わいは、今も阿佐ヶ谷に受け継がれている。

地元の子どもたちが作る飾りは、商店街の夏を鮮やかに彩り、訪れる人々を笑顔にしている。(2025年8月7日 筆者撮影)
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