見出し画像

ぼくものがたり【第37話】焼け跡の宝探し――戦後、ぼくらの金属探し

阿佐ヶ谷駅の南側には、川端通りという商店街が今でもある。
そこもお店がぜんぶ焼けちゃって、焼け野原になった。
すると子供たちは、そんな焼け野原でも遊ぶようになった。

そこには色々と落ちていて面白かった。
その川端通りには、被災前にタイル屋があったので、
焼け残った色々なタイルがいっぱい落ちていた。
大正モダンのお洒落なタイルや、絵が描いてあるタイルなど。
僕もカッコいいタイルを拾っては喜んでいた。

そのうち、子供たちは焼け野原で、「金属のもの」を探しはじめた。

なぜかと言うと、
戦争で日本は大砲や軍艦とかをつくるため、
戦争で金属のほとんどを使っちゃったから、金属が全くなくなっていた。

お寺の鐘や、タンスの取っ手まで没収されていたんだから。

だけど、復興するにはどうしても金属が必要だった。

区役所の近くにクズ屋があった。そこで金属を集めていた。
「なにか金属のものを拾って来れば、買ってやるから持ってこい」
と、近所の子どもたちにどんどん言いつけた。

「金属って何だ?」
って聞くと、

「釘とか電線とか何でも。
鉄とか、銅とか、真鍮(しんちゅう)。
鉄はあまり高く買えないけど、銅と真鍮ね。
銅は電線を作るのに使えるし。
真鍮はね、これは立派な金属だから、高く買ってやるから」

と、子供たちに宣伝したの。

それで子供たちは焼け跡に金属を探しに行った。
僕も一緒になって探した。

銅と言っても、どういうものなのかわからないから、
まずは、上級生がやっているのを見ていた。

そうすると、削ってみると赤くなるのは、もとは電線だったもので、
これが銅だってわかった。
真鍮は削ると、きれいな金色が出てくる。

そうやって、区別の仕方をだんだんと覚えた。

その頃は戦争に負けてみんな貧乏で、
お小遣いをくれる大人なんて誰もいなかった。


その後、金属探しは僕が中学生になっても続いていた。
みんな焼け跡に入っては拾っていたから、そのうちみんな拾われて、
焼け跡じゃいくら掘っても何にも出なくなった。

そうしたら、焼けていない家から金属を取る子が出てきて、
学校に苦情を言ってくる人がいた。

「阿佐中(阿佐谷中学)の子に金属を取られました。見てください!」
と、先生に訴えた。

なので朝礼で先生が、
「金属を売っている子供がいましたけれど、
もう焼け跡には金属はありませんし、
まだ人が住んでいる家から取るのはやめなさい。
あれは迷惑をかけますから、絶対にやめるように」
と、生徒に言った。

それでみんなの金属探しは終わった。

そのうち日本の景気も少しずつ良くなってきて、
きちんとしたアルバイトをして、お小遣いを稼げるようになった。

納豆売りや新聞配達。
今、新聞配達を子供がやっているのなんて全く見ないけれど、
当時は子供たちがやっていた。


―― 続けて読む(下の文字をタップできます) ――
次の話【第38話】
農地改革――もらえた土地を返した理由
連載目次(案内所)はこちら
前の話【第36話】
物干し泥棒――日本中が貧乏だった 


いいなと思ったら応援しよう!