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ぼくものがたり【第6回】いちばん良かったころ(後編)――町のために尽くした祖父・鍬太郎

鍬太郎の時代

祖父、鍬太郎は、世間が平和な時も、戦争で大変な時も、
いろいろと世話役をやって、昭和20(1945)年2月、終戦前に亡くなった。

そのお葬式もその後も、僕にとって鍬太郎は誇らしい存在だった。


鍬太郎は、その杉並第七小学校(通称・杉七)の設立に際して、
さまざまな世話をやいた。

土地の確保から建設の相談事に関わり、いろいろと寄付もしていた。

これは杉七の開校祝賀式の記念写真。

昭和4(1929)年 杉並第七小学校・開校御祝賀式にて
(最前列、右から3番目、羽織袴姿の鍬太郎)
出典:杉並第七小学校五十年史より

鍬太郎は、初代のPTA会長として、学校の会合や行事にたびたび呼ばれていた。
正面に立って話したり、保護者や先生方の声にじっと耳を傾けていた姿を、僕は今でも覚えている。

「やっぱり、爺ちゃんはカッコいい」と思っていた。


そんな鍬太郎が亡くなった葬式は、本当に長い行列ができたんだ。

杉七のほとんどの先生方が列に並んでいた。
校長先生も、小使いさんも、深々と頭を下げて、お線香をあげてくれた。


僕は小学校に入ったばかりで、先生の顔も覚えたてだったから、
お線香をあげに来た人々の周りを走り回って、
誰が来ているのか、一人ひとりの顔をよく見て覚えていたんだ。

そして、葬儀が終わると、僕はうれしくて親父に報告した。

「校長先生もいたよ。あの先生も、小使いさんまで来てくれた」

親父は少し驚いたように目を丸くし、それから静かにうなずいた。

「……そうか。ありがたいなあ」


鍬太郎の葬式は、真冬の2月だったけれど、
空襲もなく静かな日で、温かい雰囲気だった。

「お世話になりました」「ご立派な方でした」

訪れた人々は口々にそう言って、遺影の前に花を手向け、
深く頭を下げていった。


月日が過ぎ、ある日、家族で墓掃除をしていると、
通りがかった人が立ち止まった。

「ここ、鍬太郎さんのお墓ですよね。
昔、うちを助けていただいて、恩人なんですよ。
お線香、あげてもよろしいですか?」


そう言って手を合わせたのは、その人だけではなかった。

別の日にも、見知らぬ人たちが何度も立ち止まり、
鍬太郎の名を口にして線香を手向けていった。


大きな笑い声、そして白い髭を撫でる仕草。
僕はいまでも、その姿をはっきりと思い出せる。


そんな思い出を呼び起こしてくれるのが、
今回の見出し画面にもなっている、僕の七五三のときのこの写真。

昭和18(1943)年11月15日・功の七五三
写真の僕の隣で着物を着ているのが、祖父・鍬太郎です。

写真には、おりん婆さん、晴れ着姿のいとこたち、そして母の親戚たちが一緒に写っている。
みんな、どこか誇らしそうな顔をしていた。

この写真を見るたびに、僕はあのころの光や空気のぬくもりを、
今でもはっきり思い出せる。


家の壁を埋め尽くしていた感謝状。
お袋とおりん婆さんが家賃を丁寧に帳面へ書きつけていた姿。

賑やかな庭とお琴の音色。
きれいな着物姿の人々。
笑顔の鍬太郎。


それらすべてが、鍬太郎と家族が生きた“いちばん良かったころ”の証し。

あのころの空気は、もう戻らないけれど、
「町のために尽くす」――鍬太郎が大切にしていたその思いは、
今も僕の胸の奥で、静かに息づいている。


―― 続けて読む(下の文字をタップできます) ――
次の話【第7話】
始まった戦争

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前の話【第5話】
いちばん良かったころ(前編)――お琴と寄付と月末の行列





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