ぼくものがたり【第18回】祖父・鍬太郎の死――戦局とともに弱った命
昭和19(1944)年に入ったころから、鍬太郎の様子がおかしかった。
はじめのうちは、風邪でも引いたのかと思っていたけれど、
どうも様子が違っていた。
奥の部屋で寝ている時間が、どんどん長くなっていった。
鍬太郎は、心臓の病を患っていた。
昭和16(1941)年12月8日の開戦から、
昭和18(1943)年までは方面委員として町に尽くした。
体を壊しながらも、働き続けた証が、いくつかの表彰状として残っている。
でも昭和19(1944)年に、6月1日付けで、
「本人の願いにより司法保護委員を免す」という証書もあって、
事実上、仕事から身を引いていた。
戦争の過労と心労が、体を蝕んでいったのだと思う。
鍬太郎は、軍人の健作おじさんから、
本当の戦況を聞いていた。
おじさんは高松宮殿下の近衛兵として、
南洋諸島の慰問に行っていた。
その南の島での惨禍を、目の当たりにしていたんだ。
アメリカ軍は、爆弾も食料もとにかく豊かで、兵隊も元気。
日本軍は、武器も食料もなく、兵隊はガリガリに痩せて。
日本が1発撃てば、向こうから雨のように爆弾が飛んでくる。
逃げるどころか、全滅。
「大本営のニュースは大ウソ。アメリカは化け物」
そう、鍬太郎だけに話していた。
だから「特攻」の出撃をニュースで聞いた時は、
「国は、勝てると思っているのか?」と、一人心を痛めていた。
南の島々を占領して広げた領土も、次々に奪い返されて、
大日本帝国は少しずつ小さくなっていた。
鍬太郎は、杉七(杉並第七国民学校)で、
昭和4(1929)年の創立から、PTA会長を務めていた。
なので、馴染みの卒業生も多かった。
知り合いだった少年たちが、次々に兵隊に取られ、
やがて戦死の知らせが届くようになった。
その度に、必ず葬儀に行っていた。
「あの子は、真面目な子だったな…」
葬儀から帰ると、そんなふうに言うこともあった。

戦時下の葬儀は、家族や地域の人々が総出で見送り、その姿は哀しみに包まれていた。
病床にあっても、鍬太郎は寄付を続けていた。
地域のためにと思っていたのに、
「陸軍大臣」や「大政翼賛会」といった
戦争の組織から感謝状が届くようになっていた。
お袋は、鍬太郎が感謝状を、
厳しい顔で見つめていたと話していた。
意図せず、戦争に加担してしまったという思いが
あったのかもしれない。
体調は、日に日に悪くなっていった。
鍬太郎は戦場には行っていない。
でも戦争に、少しずつ、押しつぶされていくようだった。
季節は冬へ向かって、12月、そして1月。
警戒警報や空襲警報が、毎日のように鳴り響き、
空襲は昼間から、夜の攻撃へと変わってきた。
やがて鍬太郎は、
「俺は大丈夫だから家にいる」と言って、
防空壕に行かなくなった。
「家はケヤキの木が隠してくれてるから大丈夫だ」
そんなことを、冗談みたいに言っていた。
その朝、僕は奥が騒がしいので目を覚ました。
健作おじさんとミヨおばさんが来ていた。
親父も、国吉おじさんも、
みんなが目を赤くしている。
奥の部屋へ行くと、布団に入っている鍬太郎の顔に、
白い布がそっとかけられていた。
おりん婆さんが、その横で声を殺して泣いていた。
お袋が、
「おじいちゃんね、亡くなったのよ」と、涙声で言った。
僕はそのとき、
それがどういうことか、よくわからなかったけれど、
“死んだ”ということだけは、わかった。
何かが、家のなかから
ごっそり抜け落ちたような気がした。
昭和20(1945)年2月6日。
祖父・鍬太郎は、65歳でその生涯を終えた。
戦争がなければ、どうなっていただろう。
もっと、長生きしてほしかった。
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