どうか、これは物語のままで。
午前6時47分。
「行ってきます」
娘が、いつものように玄関を飛び出していった。
「忘れ物ない?」
「たぶん!」
たぶんって何よ、と笑いながら、その背中を見送る。
夫は少し前に仕事へ出かけた。
一人で暮らす母には、午後から病院だったことを思い出し、
メッセージを送った。
猫のチーコは窓辺で丸くなっている。
いつもと同じ朝だった。
その日の午前11時47分。
突然、床が大きく揺れた。
棚から物が落ち、窓が激しく鳴る。
立っていることもできず、私は机の下で頭を守った。
揺れが収まったあと、真っ先に手に取ったのはスマートフォンだった。
娘は。
夫は。
母は。
家にいる猫は。
電話をかけても、つながらない。
メッセージを送っても、既読にならない。
今すぐ娘の学校へ行きたい。
母の家にも行かなければ。
家にいる猫も助けに戻りたい。
けれど、外では信号が消え、
道路には割れたガラスが散乱していた。
大きな余震が来る可能性もあるという。
「そのとき、どこにいても、まずは自分の安全を守る」
以前、家族で決めた言葉を思い出した。
娘は学校にいる間は、学校の指示に従う。
夫は無理に帰宅しようとしない。
母のことは、近所の人にも安否確認をお願いしてある。
電話がつながらないときは、災害用伝言サービスを使う。
避難場所は一か所だけでなく、第二候補まで決めてある。
財布の中には、それを書いた小さな紙が入っていた。
何度も確かめたはずなのに、
手が震えて文字がうまく読めない。
それでも私は、その紙を握りしめた。
避難場所へ向かえる状況になったあと、
私は職場に置いていた小さな防災リュックを背負った。
夕方、指定された避難場所で娘と会えた。
娘は私の顔を見るなり、泣いた。
「お母さん、来ないかと思った」
「ごめんね。怖かったね」
泣かないでとは言わなかった。
もう大丈夫とも言えなかった。
ただ、娘の背中をゆっくり撫でた。

しばらくして、近所の人に付き添われた母もやってきた。
夫の安否は、まだ確認できなかった。
そして、もう一人。
家に残してきた猫のことが、ずっと頭から離れなかった。
怖がって、家具の隙間に隠れているかもしれない。
割れたものを踏んで、けがをしているかもしれない。
水は飲めているだろうか。
娘も何度も尋ねた。
「チーコは大丈夫かな」
「大丈夫だよ」と言ってあげたかった。
けれど、それは約束できない言葉だった。
「心配だね。戻れるようになったら、必ず迎えに行こう」
私たちは、そう言って待った。
避難所に着いてしばらくすると、係の人から案内があった。
「断水しているため、水洗トイレは流せません。
便器に携帯トイレをかぶせて使用してください」
私は、防災リュックから携帯トイレを取り出した。
食料や飲み水のことは考えていたのに、
トイレのことは、以前の私なら後回しにしていたかもしれない。
けれど、トイレは我慢し続けられるものではない。
「これも防災用品なの?」
娘が、少し驚いた顔で聞いた。
「こういう、普段は見えないものも必要なんだね」
その一回分をリュックに入れておいたことで、
私たちは、目の前にあった困りごとを一つ減らすことができた。
翌朝、自宅周辺の安全が確認され、一時的に家へ戻ることができた。
玄関を開けると、家の中は物が散乱していた。
「チーコ、どこにいるの」
名前を呼んでも、返事はない。
胸の奥が冷たくなった。
何度も呼びながら部屋を探すと、かすかな鳴き声が聞こえた。
チーコは、倒れた椅子の陰で小さくなっていた。
差し出した手の匂いを嗅ぎ、ゆっくり顔を擦りつけてきた。
「よかった……」
抱き上げたい気持ちをこらえ、いつも使っているキャリーに入れた。

避難場所へ戻ると、娘は猫の姿を見た瞬間、その場にしゃがみ込んだ。
キャリーの扉越しに伸ばした娘の指へ、チーコが額を押しつけた。
娘は、泣きながら笑っていた。
避難所の隅では、小さな男の子が、
まだ迎えに来ない母親を待っていた。
「きっとすぐに来るよ」
そう言いかけて、私はやめた。
約束できないことを、
安心させるためだけに言ってはいけない気がした。
代わりに、男の子の目を見て尋ねた。
「一緒に、お名前を伝えに行こうか」
男の子は、小さくうなずいた。
何かを解決できなくても、できることはある。
正しい言葉が見つからなくても、
相手を一人にしないことはできる。
三日目。
夫が無事だと分かった。
安心した途端、身体の力が抜けた。
けれど、そこで災害が終わったわけではなかった。
壊れた家のこと。
これから暮らす場所のこと。
仕事や学校のこと。
受けられる支援のこと。
時間がたつにつれて、
必要なものも、必要な助けも変わっていった。
もっと前に話しておけばよかった。
誰が母を迎えに行くのか。
娘と連絡が取れないとき、どうするのか。
家に残った猫を、誰が、どうやって避難させるのか。
家に残るのか、避難するのか。
その選択が安全になるのは、どのような場合なのか。
反対に、どのような場合には危険になるのか。
安否が分からないまま待っている人に、何と声を掛けるのか。
大切なものを失った人の隣で、私たちに何ができるのか。
何も起きていないときに、考えておけばよかった。
心から、そう思った。
——ここまでの物語は、フィクションです。
今朝も娘は、いつものように出かけました。
夫は仕事へ行き、母も普段どおりに暮らしています。
我が家の猫は、窓辺で眠っています。
大きな災害は起きていません。
でも、明日も同じ朝が来るとは、誰にも約束できません。
先日、私は一冊の防災ガイドブックを公開しました。
この物語は、そのガイドブックに書いた「もしもの選択」を、
一つの家族の一日に置き換えてみたものです。
物語なら、ページを閉じれば、いつもの暮らしへ戻れます。
けれど、現実に起きた災害を、なかったことにはできません。
あなたの家では、電話がつながらないとき、どうしますか。
家族が別々の場所にいたら、どこで待ちますか。
家にペットが残っていたら、誰が、いつ迎えに行きますか。
今すぐ、すべての答えを出す必要はありません。
ただ、一つだけでも家族で話してみる。
それが、「もしも」のときに迷う時間を、
ほんの少し短くしてくれるかもしれません。
防災ガイドブックは、こちらの記事で無料公開しています。
当初は地震に特化した内容でしたが、
今回の大雨を受け、
「大雨・洪水・土砂災害編」を新たに追加し、
総合版として改訂しました。
前回の記事に掲載していたガイドブックも、
すでに新しい総合版へ差し替えています。
地震への備えとあわせて、
大雨や洪水、土砂災害への備えにも、
ぜひお役立ていただければと思います。
この物語が、物語のままで終わりますように。
そして、もしものときに、大切な人と再び会えますように。
※この物語はフィクションです。実際の災害時には、災害の種類や周囲の状況、自治体などから発表される避難情報に応じて行動してください。
※携帯トイレについては、内閣府「トイレ備蓄忘れていませんか?」(『広報ぼうさい』No.111、2024年)を参考にしています。
ちなみに、最後に。
私がいつも、口を酸っぱくして娘に言い聞かせている
「防災対策」
があります。
それを最後に、ここでお伝えしておきます。
「普段から、トイレは絶対に我慢するな。
災害が起きたら、どこのトイレも使えなくなると思え。
今の尿意を、軽く扱うな!」

以上です。
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