【短編小説】金木犀 金色の誓い[風まかせ文芸部]
金木犀 金色の誓い
窓を開けると、甘い香りが、爽涼な風とともに漂ってきた。その、えもいわれぬ香りに誘われ、少女は、庭に出た。
庭の外れに、その芳香を放つ木は、金色の霞を纏ったかのように佇んでいた。小さな、無数の黄金色の花が、風に小さく揺れている。
いつの間にか、秋が訪れていた。そして今年も、その訪れを告げるように、この木は、花を咲かせた。この木――金木犀。むせかえるような、濃密な甘い香りが、肺の奥深くまで満ち、胸の底に沈む記憶に触れ、呼び覚ます。
二年前、十二歳の秋のことだった。王城で、秋を愛でる行事があり、少女も、訪れていた。
「ほら、ララナ、これ、お前にやるよ」
ぶっきらぼうに言って、黒髪を長く伸ばした、一つ年上の少年が、木の枝を少女に差し出した。少年と同じく黒髪の少女、ララナは、思わず目を瞠った。
「まあ、なんて可愛らしい花でしょう。それに、とてもいい香り……」
枝には、細かな金色の花が、あたかも金の粒をまぶしたかのように、群れ咲いていた。その一つ一つから、甘く柔らかい香りが立ち上り、鼻腔から肺へと、広がっていく。初めて見る花だった。
「東方の花だそうだ。国王陛下が、秋の訪れを祝して、皆に賜ったんだ」
なんという香りだろう。夢幻郷に迷い込んだかのように、半ば陶然としながらも、ララナは、当惑していた。
「でも、お従兄様、どうしてわたしに? お姉さまにでは、ないのですか?」
ララナではない、姉こそが、彼の婚約者なのだから。
怒ったように、従兄、レミスは言った。
「なんであいつにやらなきゃいけないんだ? これは、この間、助けてもらった礼だ。この花は、お前に似合う」
ララナの頬に、熱が上った。その華奢な手に、強引に花枝を押し付けるや、レミスは、さっさと歩いて行ってしまった。
呆然と、ララナは、その後ろ姿を見詰めていた。
やがてその姿が見えなくなるや、近くの角を曲がり、一人の少女が近付いてきた。十五歳程と見える。ララナによく似た顔立ちをしているが、大人びて、既に妖しい気を纏っている。ララナの姉、ヴァーナだ。
自分を見下ろす姉の目に、冷たい炎を見出し、ララナは、身を固くした。そのララナの手から、乱暴に、ヴァーナは花枝を取り上げた。
「何よ、こんな花!」
ばさりと投げ捨てられ、花が、芳香を散らした。
ララナは、立ち竦み、凍りついたように動けなかった。
そこに、一人の少年が、さっと駆け寄った。ララナと同い年の、長い銀髪を一つに纏めたその少年は、屈み込み、床に落ちた花枝を、優しい手つきで拾い上げた。すっと立ち上がり、ララナの手へと、花枝を戻す。それから、静かに、少年は、ヴァーナへと向いた。
途端、ヴァーナの頬が、赤みを帯びた。羞恥のためばかりでは、なかった。彼女の視線は、銀髪の少年に釘付けになっていた。
吸い付くようなその視線に、しかし少年は、眉一筋動かさなかった。何事もなかったかのように、優雅に一礼する。ヴァーナが口を開きかけたが、少年は、機先を制して言った。
「ヴァーナ姫。丁度よかった。国王陛下が、これから、ご婦人方を薔薇園にご案内されるとのことです。そして、お一人お一人に、似合う花を下さるそうですよ。姫にも、きっと、似合う花がありましょう」
「まあ! それは、ぜひ行かなくては。ごめんあそばせ」
我こそは、最も美しい花を勝ち得んと、礼もそこそこに、ヴァーナは、足早に去っていった。
そうして落ち着いたところで、ララナは、やっと礼を口にした。
「あ、ありがとうございます、シェイス殿。お蔭で、助かりました」
銀髪の少年、シェイスは、淡い笑みを口辺に浮かべた。
「いいえ、わたしの方こそ、夏の一件では、助けられました。それでは」
間然するところのない所作で一礼し、彼もまた、立ち去った。
再び一人になったところで、ララナは、深い溜め息をついた。相変わらず、彼は、なんと美しいことだろう。そして、彼は、誰に対しても、いつも優しく、親切だった。政敵の一族である、ララナに対してさえも。
とはいえ、その彼も、レミスとは、折り合いが悪かった。顔を合わせれば口論となり、取っ組み合いに至ったこともあった。しかし、その要因は、彼ではなく、レミスの方にあった。いつも、レミスの方から、彼に絡むのだった。
レミスは、シェイスとは対照的に、誰に対しても冷ややかだった。ヴァーナにはそっけなく、母方の実家に戻れば、実の妹をしょっちゅう泣かせているという。
けれども、レミスは、ララナに対してだけは、優しかった。そんな、優しい従兄を、ララナは、いつしか、密かに慕っていた。従兄にとっても、自分は、特別なのだろう。従兄は、自分のことを、思ってくれているのだろう。そう、思っていた。
それからも、ずっと、従兄は、ララナにだけは優しかった――。
「ララナ、ここにいたのか」
甘い香りに、半ば恍惚となっていたところを、その声に、引き戻された。聞き違えようのない、その声。従兄、レミスだ。いつになく、ぴんと張り詰めた調子だった。ララナの身体が、緊張を帯びる。
「レミスお従兄さま。どうなさいましたの?」
「明後日、宣戦布告だ」
すうっと、冷たい息を、ララナは、吸い込んだ。ついに、戦が始まるのだ。
「では……しばらく、出かけることもままなりませんね。ご実家にも行けなくなって、お祖父様やお母様にも、会えませんね」
従兄レミスは、幼い頃にこのロディオル家の世継として伯父に引き取られ、実の祖父、母と離れて暮らしているのだった。
「ああ、そうだな」
レミスの返答は、淡白だった。
ララナは、続けた。
「それに、妹姫、ミュレジーナにも。寂しいですね」
その名が出た瞬間、レミスの瞳が、揺らいだ。その、ごく僅かな動きを、ララナは、鋭く捉えていた。
「ミュレジーナだと? 寂しいことなど、あるものか! だいたい、あいつは、僕が来られない方が安心だろうよ」
殊更不機嫌そうな口調で、レミスは、言い捨てた。
残酷な真実が、ララナの胸を、氷の矢のように射抜いた。全身に、冷たい痺れが広がっていく。それでも、唇は、動いた。
「そんなことはありませんわ」
自分の口から出た言葉に、ララナは、驚いた。違う、こんなことを言いたいのではない。それでも、口は、言葉を紡ぐ。
「ミュレジーナ姫は、寂しく思うことでしょう」
一瞬の、間。それから、レミスは、肩を竦めた。
「さあて、な」
すげない言葉、しかし、声音は、少し和らいでいた。レミスは、続けた。
「お前は、このロディオルに、ずっと一緒にいるんだな」
言下に、ララナは答えていた。
「はい。おりますわ」
「そうか」
レミスは、金木犀を見詰めた。視線を、ララナへと戻す。
「やっぱり、この花は、お前に似合う。植えてよかったな」
ララナの胸が、きゅっと締め付けられた。
それから、レミスは、すぐに立ち去った。そうして独り、金木犀の傍らに、ララナは、残された。
目の奥が、熱い。気付けば、目尻から、透明な雫が零れていた。
特別では、なかった。思われているのでは、なかった。いや、特別ではあった。思われてもいた。妹として。
幼い頃から、身近な存在であったララナは、本当の意味で、従兄の、妹だったのだ。だから、従兄は、ララナにだけは優しかったのだ。そうだ。従兄は、好きになった相手には、素直になれないのだ。だからこそ、ミュレジーナを苛め、シェイスとは、喧嘩をする。
でも。
どうして。
どうして、よりによって、実の妹を?
それならばいっそ、自分が実の妹であればよかった。そうであれば、諦めることも、できただろう。
どうして。
どうして、姉なのか。
姉は、レミスを愛していない。姉が求めているのは、あの銀髪の少年、シェイスだ。レミスは、姉にとって、己が所有すべきものでしかない。
ならば、姉ではなく、自分が婚約者であればよかったのに。そうであれば、たとえ愛されずとも、結ばれることはできただろう。
どうして。どうして。どうして――。
一陣の風が、吹いた。金木犀がざわざわと揺れ、甘い、濃密な香りが、ララナの細い身体に吹き寄せた。その、甘くもひんやりとした風が肌を撫でる感触に、ララナは、はっとした。
戦が、起ころうとしている。
自分の心中には、世の終末のような嵐が吹き荒れている。
それでも、金木犀は、変わることなく咲いている。人の世の争いも、人の心もよそに、花は美しく咲き、香る。
己の思いも、また。
レミスの思いがどうあれ、変わらない。
どうしてかなど、わからなくていい。妹でも、いい。何があろうとも、自分は、自分だけは、レミスと、ずっと一緒にいる。
秋の陽に、金色に輝き燃える金木犀が、視界に滲む。金は、永久の色。その色を持つ花に、ララナは、永遠の誓いを託した。花の香りが、ララナの満腔に、行き渡る。この花がララナに似合うと、従兄、レミスは言った。その言葉を、香りとともに、心奥に、深く、深く、封じ込める。
そうしてしばし、ララナは、秋風の中、金木犀の香りを抱き、自らも金木犀と化したかのように、佇んでいた。
了
今回、風まかせ文芸部さんのお題に参加させていただきました。
どうもありがとうございます。
本作は、拙作の長編ファンタジー小説〈隻翼の竜の書〉シリーズの一作、『霜夜の星』のスピンオフですが、本作のみでもお読みいただけます。
『霜夜の星』の序章はこちらです。↓
前作はこちらです。↓
なお、本作で触れられている、レミスとシェイス、それに前作『夏の終着点 君に幸あれ』の主人公がララナに助けられた事件については、こちらの話で語られています。コメディ調です。↓
〈隻翼の竜の書〉シリーズについては、こちらをご覧ください。↓
