ヴンダーカンマーの記憶④ スキエンティフィカ(Scientifica)の記録
Scientificaの記録(約3,100字/読了目安:8分/全8話)
今日は、科学器具の収蔵記録を照合している。
世界を観測し、測るために造られたもの――スキエンティフィカ。
この館では、科学や観測に用いられた器具を、古い分類名のままそう呼んでいる。
望遠鏡、角度を測る器具、時計。
棚には、星の位置を描いた図も収められている。
同じように真鍮で造られていても、それぞれ形が違う。
細い筒。
円を描く目盛り。
小さなねじと、それを回すためのつまみ。
何を測るために、この形が必要だったのだろう。
収蔵番号を確かめながら、一つずつ記録と見比べていく。
作業台には、一本の望遠鏡が置かれている。
筒の表面は、長い年月で落ち着いた色になっていた。
その中で、接眼部の近くにだけ、少し明るいところがある。
何度も手が触れた場所なのかもしれない。
以前の点検写真にも、同じ跡が写っている。
新しくできたものではなかった。
レンズに斜めから光を当てる。
縁の近くに、小さな曇りがある。
これも記録に残っていた。
僕は今の状態を書き加え、筒を支える台へ目を移した。
円弧に沿って、細かな目盛りが刻まれている。
数字の間にも、短い線が並ぶ。
離れて見れば模様のようだが、近づくと、その一本ずつが区別できる。
遠くのものを見るための筒に、なぜここまで細かな目盛りがいるのか。
見えた、というだけでは足りなかったのだろう。
どこに見えたのか。
どれくらい動いたのか。
それを、ほかの人にも分かる形にするために。
器具と一緒に保管されていた資料を開く。
観測の記録だった。
日付。
時刻。
星の名らしい文字。
その横に、数字がいくつも並んでいる。
最初の頁を見ただけでは、どの数字が何を示しているのか、僕にはよく分からなかった。
欄の上に書かれた言葉を調べ、収蔵記録の説明と照らし合わせる。
時刻の欄と、位置を記した欄が、少しずつ区別できるようになった。
古い数字には、読み慣れない形もある。
七なのか、一なのか。
別の頁にある同じ筆跡と見比べる。
たった一行を読むのにも、ずいぶん時間がかかった。
頁をめくる。
また、同じ名があった。
その次にも。
日付は違う。
時刻も、隣の数字も少しずつ違っている。
同じ対象を、何度も見ているのだ。
数日おきに記録のあるところもあれば、しばらく間が空いているところもある。
余白に天候について書かれた頁もあった。
見ようと思えば、いつでも見られたわけではない。
机の上で頁をめくるだけの僕は、数か月をすぐに通り過ぎてしまう。
その間にも、この人は夜を待っていたのだろう。
器具を整え、空の様子を見て、また待った日もあったはずだ。
日付を辿っていくと、年が変わった。
それでも、同じ名が出てくる。
僕は前の頁へ戻り、二つの記録を見比べた。
数字が違うことは分かる。
ただ、それがどれほどの違いなのか、何を意味するのかまでは、まだ読み取れない。
この人には、何が見えていたのだろう。
一度望遠鏡を覗けば分かることではない。
前に見たものを覚えているだけでも足りない。
紙に書いておかなければ、並べて確かめられない違いがあった。
資料の間には、計算を書いた紙も挟まれていた。
端が折れ、折り目に沿って色が濃くなっている。
細かな数字が、紙の下の方まで続いていた。
一本の線で消された数字がある。
その上に、小さく別の数字が書いてある。
下の計算も途中から消され、余白でやり直されていた。
何を間違えたのだろう。
数字を写し違えたのか。
計算の途中で、どこか違うと気づいたのか。
僕には、その式を最後まで追うことができない。
それでも、一度書いた答えを、そのままにしなかったことは分かる。
別の紙には、よく似た計算がいくつも並んでいた。
答えだけを書き留めたものだと思っていた。
でも、ここに残っているのは、答えに辿り着くまでの方だった。
書いて、消して、もう一度計算する。
観測の記録へ戻り、数字を確かめる。
紙の狭い余白まで使ったあとで、次の紙を取り出す。
僕は、その紙を並べたまま、しばらく見ていた。
そこまでして知りたかったのだろうか。
収蔵記録の説明によれば、観測した位置から、その後に見える位置を求めた計算も含まれているという。
まだ見ていない空について、先に数字を書く。
そして、その日が来たら、実際の空と比べる。
予想した数字と、観測した数字。
近いところもあれば、違うところもある。
違っていたら、また調べるのだろう。
器具の合わせ方なのか。
時刻なのか。
計算なのか。
それとも、考え方の方に足りないものがあるのか。
この紙の書き直しが、どの違いによるものだったのかは分からない。
一つの訂正にも、理由があったはずだ。
僕は、読み取れなかった数字のある頁へ戻った。
先ほどは一に見えた字が、ほかの頁と比べると七にも見える。
同じ欄の数字を辿り、もう一度、字の形を確かめる。
そこで、自分もなかなか手を止められずにいることに気づいた。
今日は器具と資料の照合をしている。
この計算を全部読み解く日ではない。
それでも、分からないところが一つあると、気になった。
一つ読めれば、隣の数字も知りたくなる。
欄の意味が分かると、今度は数字の違いが気になる。
そこまでして、と思ったばかりなのに。
望遠鏡の接眼部へ目を戻す。
ここに顔を寄せた人も、初めは、ただ見たかったのかもしれない。
肉眼ではよく見えないもの。
遠すぎて、形の分からないもの。
見えるようになれば、それで満足するのだと思う。
でも、見えたら、動き方を知りたくなる。
動き方が分かれば、その理由を知りたくなる。
紳士が、こうした器具や記録を集めた気持ちも、少し分かる気がした。
新しい器具によって、それまで分からなかったことが分かる。
それを使った誰かが見つけたことまで知ることができるなら、集めたくなったのかもしれない。
僕は、机の上に広げた紙を見た。
調べたい箇所が、始めたときより増えていた。
時刻を確かめる。
思っていたより時間が過ぎている。
読み切れなかったところは、そのまま書いておくことにした。
無理に数字を決めず、頁と行を控える。
詳しい人に確かめてもらう必要がある。
記録の筆者についても、今ある説明だけでは分からなかった。
この館へ招かれた誰かの字なのか。
別の場所で使われた器具とともに、ここへ来たものなのか。
器具と記録が一緒に保管されているからといって、すべてがこの望遠鏡で観測されたとは限らない。
確かめることは、まだ残っている。
僕は計算の紙を元の順に戻しながら、日付の欄をもう一度見た。
二百年近く前の夜が、いくつも並んでいた。
その夜の空を、僕は見ていない。
風があったのか。
寒かったのか。
長く待ったあと、ようやく見えたのか。
数字を書いた人が、嬉しかったのかどうかも分からない。
ただ、その時刻に、そこを見たという記録がある。
僕にはまだ十分に読めないが、辿るためのものは残っている。
望遠鏡だけが残っていたら、何を見るための道具なのかは分かっただろう。
でも、この人が何度も同じものを見たことまでは、分からなかった。
この紙があったから、今日、僕はその繰り返しを知った。
消された数字も、書き直された計算も、記録に含めておく。
きれいに整理された答えだけでは、残らないことがある。
紙を収め、望遠鏡の状態を書いた記録を閉じる。
作業台の上に、窓からの光が細く残っていた。
使っていた灯りを消すと、真鍮の目盛りが見えにくくなった。
明日の予定を確かめる。
次は写真機だった。
器具の記録と一緒に、撮影の台帳も用意することになっている。
棚から該当する資料の箱を確かめ、番号を控える。
今日見ていた紙には、数字が残されていた。
明日は、像を残すために造られたものを調べる。
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